霊友会は法華経系新興宗教の起源!?
その歴史は分派・独立の繰り返しだった!
霊友会は、 昭和五年、久保角太郎(1892~1944)が、東京青山会館で
発会した法華経系の在家主義仏教団体である。
角太郎は、はじめ、大正八年、法華系民間信仰者であった西田無学(本名は利
蔵)が提唱した「仏所護念法」なる教え(諸霊の供養法)に傾倒(けいとう)した。
さらに、大正十三年、日蓮宗系の民間霊能者・若月チセと知り合い、チセの霊感指導による罪障消滅法に感化されて、 熱心な信者とな
る。また、ここで意気投合した戸次貞雄らと共に、西田無学の思想と行法、若月チセの霊感指導法、そこに法華経信仰を組み込む形で、
宗教団体を立ち上げようと企図。その組織に「霊友会」という名前を付ける。
しかし、若月チセとは宗教観などの違いをめぐって決裂したため、角太郎は昭和三年、戸次貞雄や実兄夫婦らと共に赤坂霊友会を結成した。この間に、角太郎は実兄・小谷安吉の後妻である小谷喜美を、若月チセの後釜(あとがま)に据(す)えるために、霊能者として育成した。
角太郎の指導によって喜美が行なったのは、
一、真冬に一日中、浴衣一枚で生活する
一、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす
一、毎日、数時間に及ぶ水行(頭から水をかぶること)
を実践する
一、五十一日間を一日一合のそば粉で過ごす。
一、二十一二日間の断食などだったという。
およそ、まともな修業とは言えない、人間の限界を越えるような荒行の強要であった。 そのため、警察沙汰にもなったことがあったという。
そして昭和五年、すでに戸次貞雄とも袂(たもと)を分かっていた角太郎が、小谷喜美らと共に新たに発会したのが、現在の教団につながる「霊友会」である。
角太郎は小谷喜美を会長に就任させ、自らは理事長となった。 霊友会は、この二人がまさに「教祖コンビ」となって、法華経信仰の中に、霊能力の概念(がいねん)や先祖供養などを”ごちや混ぜ”にして成立した教団、といえる。
霊友会は、その後、当時の経済不況や社会不安などを背景とし、迷える庶民の受け皿となる形で発展する。開創当時、わずか五十人足らずだった組織が、瞬
(またた)く間に百万人にふくれあがり、昭和二十四年には二百万人もの会員を擁(よう)するに至った。
雨後の笥(たけのこ)と言われた終戦直後の各新興宗教の結成時期にあって、霊友会の勢力はダントツで、そのまま勢力を拡大していれば、日本最大の巨大教団
を形成していたのではないか、とも言われている。
昭和十九年十一月に角太郎が死去すると、小谷喜美が全権を握って教団を運営した。昭和四十六年二月に小谷喜美が死去した後は、久保角太郎の次男・久保継成が会長に就任した。
だが、後述するように久保継成は教団から追放されることとなる。それ以降は、幹部たちの輪番で会長を輩出するシステムに変わり、現会長は平成二十五年に就任した末吉将祠〈まさはる〉である。
霊友会宗家(そうけ)としての久保一族が去った霊友会は、大教団のまとめ役を失って低迷状態に入った、ということは、もっぱら言われるところだ。
さて、霊友会のホームページには、「私たちは、人のために行動する Myおせっかい" を推進していきます」などと、人との関わりを大切にしている集団である、というようなメッセージが散見される。
しかし、霊友会の歴史を少し紐(ひも)解くと、なかなかの問題多き教団である。しかも、とても人のためになるとは思えない非行、事件などが起きており、その都度、激しい分派・独立が生じているのである。
法華経系の新興宗教のルーツをたどれば霊友会に行き着く、と言われるのもこうした分派を繰り返した歴史から見れば当然と言えよう。
その分派の歴史を追ってみると、まず、霊友会が開創した大正十四年に、戸次貞雄(日本敬神崇祖自修団)が早々と教団を去った。
次いで、昭和六年に中村雅哉が脱会し「正法会」を、昭和十一年には岡野正道・貴美子が「孝道教団」を、また同年に霊友会の新井支部幹部であった庭野日敬、長沼妙佼が「立正佼成会」を設立している。
そして戦後は、昭和二十四年に長沢銀次郎が独立開創して「博愛同志会」を設立すると、翌二十五年には斉藤千代が「法師会」を、宮本ミツが「妙智会」を設立するなど、脱会独立が続々と生じる。
宮本の脱会では、一瞬にして五万人の霊友会の会員を失うことになったという。また、同年、関口嘉一・トミノが脱会して「仏所護念会」を設立する。
さらに、昭和三十六年には佐藤忠次郎·俊江が「妙道会」、石倉保助が「大慧会」を設立し、同二十八年には岩楯岩吉が「大慈会」、飯島将吉が「希心会」を設立していく。
近年で言えば、二代会長・久保継成が、平成五年に会長職を辞任して理事長に就任するも、同八年に自身が会長職に復帰する旨の宣言を一方的に発表する。 こ
れにより、久保継成と久保を支持する幹部は反久保派と内紛状態となる。
その後、法廷闘争も経(へ)て結局、反久保派が勝利し、久保継成とその支持グループは教団から追放されることになる。
久保継成は、独自の別グループを形成し、平成十五年「Inner Trip REIYUKAI International」を結成したが、翌年、久保継成はそことも袂を分かち、久保継武を信奉する一部の信者と新たに宗教団体「在家仏教こころの会」を創立している。
こうした激しいほどの分派独立の歴史には、先述の通り、理由があり、それは、会長や教団などによる非行や事件、スキャンダル等であった。
つまり、そうした事件などによって社会から批判を浴び、教団に不信を持ち嫌気がさした有力支部が離脱して、新しい教団を設立していった、という図式なのである。
次回は、分離独立の利油である数々の問題を衝(つ)くこのにする。
(慧妙 令和四年 三月一日)
その歴史は分派・独立の繰り返しだった!
霊友会は、 昭和五年、久保角太郎(1892~1944)が、東京青山会館で
発会した法華経系の在家主義仏教団体である。
角太郎は、はじめ、大正八年、法華系民間信仰者であった西田無学(本名は利
蔵)が提唱した「仏所護念法」なる教え(諸霊の供養法)に傾倒(けいとう)した。
さらに、大正十三年、日蓮宗系の民間霊能者・若月チセと知り合い、チセの霊感指導による罪障消滅法に感化されて、 熱心な信者とな
る。また、ここで意気投合した戸次貞雄らと共に、西田無学の思想と行法、若月チセの霊感指導法、そこに法華経信仰を組み込む形で、
宗教団体を立ち上げようと企図。その組織に「霊友会」という名前を付ける。
しかし、若月チセとは宗教観などの違いをめぐって決裂したため、角太郎は昭和三年、戸次貞雄や実兄夫婦らと共に赤坂霊友会を結成した。この間に、角太郎は実兄・小谷安吉の後妻である小谷喜美を、若月チセの後釜(あとがま)に据(す)えるために、霊能者として育成した。
角太郎の指導によって喜美が行なったのは、
一、真冬に一日中、浴衣一枚で生活する
一、真夏に布団を首までかけて一日中過ごす
一、毎日、数時間に及ぶ水行(頭から水をかぶること)
を実践する
一、五十一日間を一日一合のそば粉で過ごす。
一、二十一二日間の断食などだったという。
およそ、まともな修業とは言えない、人間の限界を越えるような荒行の強要であった。 そのため、警察沙汰にもなったことがあったという。
そして昭和五年、すでに戸次貞雄とも袂(たもと)を分かっていた角太郎が、小谷喜美らと共に新たに発会したのが、現在の教団につながる「霊友会」である。
角太郎は小谷喜美を会長に就任させ、自らは理事長となった。 霊友会は、この二人がまさに「教祖コンビ」となって、法華経信仰の中に、霊能力の概念(がいねん)や先祖供養などを”ごちや混ぜ”にして成立した教団、といえる。
霊友会は、その後、当時の経済不況や社会不安などを背景とし、迷える庶民の受け皿となる形で発展する。開創当時、わずか五十人足らずだった組織が、瞬
(またた)く間に百万人にふくれあがり、昭和二十四年には二百万人もの会員を擁(よう)するに至った。
雨後の笥(たけのこ)と言われた終戦直後の各新興宗教の結成時期にあって、霊友会の勢力はダントツで、そのまま勢力を拡大していれば、日本最大の巨大教団
を形成していたのではないか、とも言われている。
昭和十九年十一月に角太郎が死去すると、小谷喜美が全権を握って教団を運営した。昭和四十六年二月に小谷喜美が死去した後は、久保角太郎の次男・久保継成が会長に就任した。
だが、後述するように久保継成は教団から追放されることとなる。それ以降は、幹部たちの輪番で会長を輩出するシステムに変わり、現会長は平成二十五年に就任した末吉将祠〈まさはる〉である。
霊友会宗家(そうけ)としての久保一族が去った霊友会は、大教団のまとめ役を失って低迷状態に入った、ということは、もっぱら言われるところだ。
さて、霊友会のホームページには、「私たちは、人のために行動する Myおせっかい" を推進していきます」などと、人との関わりを大切にしている集団である、というようなメッセージが散見される。
しかし、霊友会の歴史を少し紐(ひも)解くと、なかなかの問題多き教団である。しかも、とても人のためになるとは思えない非行、事件などが起きており、その都度、激しい分派・独立が生じているのである。
法華経系の新興宗教のルーツをたどれば霊友会に行き着く、と言われるのもこうした分派を繰り返した歴史から見れば当然と言えよう。
その分派の歴史を追ってみると、まず、霊友会が開創した大正十四年に、戸次貞雄(日本敬神崇祖自修団)が早々と教団を去った。
次いで、昭和六年に中村雅哉が脱会し「正法会」を、昭和十一年には岡野正道・貴美子が「孝道教団」を、また同年に霊友会の新井支部幹部であった庭野日敬、長沼妙佼が「立正佼成会」を設立している。
そして戦後は、昭和二十四年に長沢銀次郎が独立開創して「博愛同志会」を設立すると、翌二十五年には斉藤千代が「法師会」を、宮本ミツが「妙智会」を設立するなど、脱会独立が続々と生じる。
宮本の脱会では、一瞬にして五万人の霊友会の会員を失うことになったという。また、同年、関口嘉一・トミノが脱会して「仏所護念会」を設立する。
さらに、昭和三十六年には佐藤忠次郎·俊江が「妙道会」、石倉保助が「大慧会」を設立し、同二十八年には岩楯岩吉が「大慈会」、飯島将吉が「希心会」を設立していく。
近年で言えば、二代会長・久保継成が、平成五年に会長職を辞任して理事長に就任するも、同八年に自身が会長職に復帰する旨の宣言を一方的に発表する。 こ
れにより、久保継成と久保を支持する幹部は反久保派と内紛状態となる。
その後、法廷闘争も経(へ)て結局、反久保派が勝利し、久保継成とその支持グループは教団から追放されることになる。
久保継成は、独自の別グループを形成し、平成十五年「Inner Trip REIYUKAI International」を結成したが、翌年、久保継成はそことも袂を分かち、久保継武を信奉する一部の信者と新たに宗教団体「在家仏教こころの会」を創立している。
こうした激しいほどの分派独立の歴史には、先述の通り、理由があり、それは、会長や教団などによる非行や事件、スキャンダル等であった。
つまり、そうした事件などによって社会から批判を浴び、教団に不信を持ち嫌気がさした有力支部が離脱して、新しい教団を設立していった、という図式なのである。
次回は、分離独立の利油である数々の問題を衝(つ)くこのにする。
(慧妙 令和四年 三月一日)
霊友会のホームページに掲載された「霊友会の歴史」。だがそこには、分裂の歴史について一行たりとも触れていない。