臨終の模様(もよう)や死相を隠(かく)す理由は!?
「御臨終はよく候(そうら)ひけるか、いかに」
去る十一月十五日夜半、創価学会の首魁(しゅかい)で名誉会長の池田大作が死亡した。
この発表がなされたのは十八日の午後、池田の家族葬・火葬が全て済んだ後であった。当日の、池田の長男・博正と会長・原田稔の発表を聞き、また翌日の聖教新聞記事も読んだが、やはり、というべきか、仏法者として大いに違和感を禁じ得ないことがある。それは池田の臨終(りんじゅう)の模様や死後の相について、まったく言及されていない点である(発表では、ただ「安詳[あんじょう〕として霊山へ旅立たれた」と言うのみ)。
日蓮大聖人は、人生の総決算である臨終に、その人が善人であったか悪人であったか、またその人の信ずる法が正法であるか邪法であるか、全てが顕われるとして、
「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんが(勘)へあつ(集)めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこ
(少)しもくもりなし。 此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候」
(御書一四八二頁)
「されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(同頁)
と仰せられ、臨終の模様と死相とを、
「眼前の現証」
(御書一〇七〇頁)
として最も重視しておられる。
しかるに、池田大作の死去にあたり、学会はこの点について全く触れないのだ。しかも、死去の発表も、家族葬と火葬が全て済んでから行なっており、巨大組織の長の訃報(ふほう)を公表するタイミングとしては、あまりに遅すぎる。
このことから窺(うかが)えるのは、学会は、池田大作の臨終の相について触れることができない、 また、第三者には死相を見せられない事情があった、ということに他ならない。
これでは、日蓮大聖人の仏法を信じる者として、池田大作の不成仏・堕地獄を自ら認めているようなものだ。もっとも、かつて池田自身が
「師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行くのが弟子だ」(『前進』昭和五十二年五月号)
と語っているように、師匠が地獄の相で死んでいくことを前提としているのが創価学会の信仰であれば、最高指導者の臨終の相がどうであろうともかまわない、ということなのかもしれないが、それならすでに日蓮大聖人の仏法の在(あ)り方から逸脱(いつだつ)し退転している。、と言うべきだろう。
我々は、仏法者として、学会員に対して「臨終はいかんがありけんと尋ぬべし(略)此の人々の御臨終はよく候ひけるかいか(如句)に」(御書一〇七〇頁)
と問い糺(ただ)し、一人でも多くの学会員を堕地獄への道から救い上げようではないか。
(慧妙 令和五年十二月一日号)
「御臨終はよく候(そうら)ひけるか、いかに」
去る十一月十五日夜半、創価学会の首魁(しゅかい)で名誉会長の池田大作が死亡した。
この発表がなされたのは十八日の午後、池田の家族葬・火葬が全て済んだ後であった。当日の、池田の長男・博正と会長・原田稔の発表を聞き、また翌日の聖教新聞記事も読んだが、やはり、というべきか、仏法者として大いに違和感を禁じ得ないことがある。それは池田の臨終(りんじゅう)の模様や死後の相について、まったく言及されていない点である(発表では、ただ「安詳[あんじょう〕として霊山へ旅立たれた」と言うのみ)。
日蓮大聖人は、人生の総決算である臨終に、その人が善人であったか悪人であったか、またその人の信ずる法が正法であるか邪法であるか、全てが顕われるとして、
「一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんが(勘)へあつ(集)めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、すこ
(少)しもくもりなし。 此の人は地獄に堕ちぬ乃至人天とはみへて候」
(御書一四八二頁)
「されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし」(同頁)
と仰せられ、臨終の模様と死相とを、
「眼前の現証」
(御書一〇七〇頁)
として最も重視しておられる。
しかるに、池田大作の死去にあたり、学会はこの点について全く触れないのだ。しかも、死去の発表も、家族葬と火葬が全て済んでから行なっており、巨大組織の長の訃報(ふほう)を公表するタイミングとしては、あまりに遅すぎる。
このことから窺(うかが)えるのは、学会は、池田大作の臨終の相について触れることができない、 また、第三者には死相を見せられない事情があった、ということに他ならない。
これでは、日蓮大聖人の仏法を信じる者として、池田大作の不成仏・堕地獄を自ら認めているようなものだ。もっとも、かつて池田自身が
「師匠が地獄の相で死んでいったとしても、疑わずに、自分も共に地獄へついて行くのが弟子だ」(『前進』昭和五十二年五月号)
と語っているように、師匠が地獄の相で死んでいくことを前提としているのが創価学会の信仰であれば、最高指導者の臨終の相がどうであろうともかまわない、ということなのかもしれないが、それならすでに日蓮大聖人の仏法の在(あ)り方から逸脱(いつだつ)し退転している。、と言うべきだろう。
我々は、仏法者として、学会員に対して「臨終はいかんがありけんと尋ぬべし(略)此の人々の御臨終はよく候ひけるかいか(如句)に」(御書一〇七〇頁)
と問い糺(ただ)し、一人でも多くの学会員を堕地獄への道から救い上げようではないか。
(慧妙 令和五年十二月一日号)
池田の死去を報じた『聖教新聞』(11月19日付)。しかし、池田の臨終の相には一言も触れずじまい