最近の顕正会では、寺院に押しかけて僧侶と対面し、盛んに法論を吹っかけている。それを顕正新聞紙上に、まるで論破したかのように活動報告として載せ、必死にアピールする。
しかし、その実状は、一方的に顕正会の主張をまくし立てるばかりで、ろくに会話もできないような有り様。
結局、まともに議論しても勝てないことが判っているのだろう。
それも当然のことで、浅井昭衛ら顕正会は日蓮正宗の教義を標榜(ひょうぼう)しながら、その内容は浅井の恣意(しい)的な解釈によって都合よく改変したものばかり。
いわば、論拠が浅井の己義なのだから、正しい教義に対応できるわけがない。
国立戒壇への執着
その代表的な事例が、浅井の執着する「国立戒壇論」である。
浅井は、あたかも「国立戒壇」の名称が日蓮大聖人以来の伝統教義であるかのように装い、「すべての御歴代上人が熱願されてきた」などと発言してきた。
しかし、この「国立戒壇」の名称は御書のどこにもない、明治期に、国柱会の田中智学が初めて使用したものである。
当家では、わずかに昭和中期頃に便宜上用いられたが、総本山第六十六世日達上人は、
「今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しない」(大日蓮 二九二号)
と判断されたのである。
驚いたことに、この指摘に対して、ついにごまかしきれなくなった浅井は、
「日興上人以来明治にいたるまでの歴代先師上人は、御遺命の本門戒壇をどのように表現されてきたのかと言えば、『国立戒壇』との呼称こそないが・・・」(顕正新聞 平成三十一年三月五日付)
と、素知らぬ顔で認めてしまった。その上で、何の根拠も示さず、
「広宣流布の暁の『勅宣(ちょくせん)・御教書(みぎょうしょ)』による戒壇を即、御遺命の戒壇とされている。これまさしく『国立戒壇』ではないか」(同)
などと勝手な解釈。
この指導の続きには愚かにも、
「このように表現は変わっても・・・」(同)
と言っているが、「『国立戒壇』の名称を使用しない」という御指南は、「表現の変更」以外の何ものでもあるまい。
最早、浅井は、自分でも何を言っているのか判っていないのであろう。
血脈相承への珍説
唯授一人の血脈についても、浅井は根拠不明の珍説を主張している。
かつて浅井は、
「代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている」(富士 昭和六十一年十一月号)
「面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替(かわ)らず、伝わるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです」(顕正新聞 平成五年一月五日付)
と、第六十七世日顕上人へ至るまでの血脈相承を肯定していた。
ところが、その後日達上人から日顕上人への御相承を「授・受がお許しにならなかったため断絶した」と突如血脈を否定し始めた。
そして、
「大聖人様の御心に叶う正しい貫首上人が御出現になれば、そのとき、たちまちに正系門家の血脈は蘇(よみがえ)る。そういうことになっているのです」(顕正新聞 平成十一年四月二十五日付)
と、御書にも御歴代上人の御指南にもない珍説を唱え出したのである。
同じ人物の口から出た発言とは、到底信じられないが、浅井の己義、変幻自在は得意技。
違うというのであれば文証なり根拠なりを示すべきであろう。
似て非なるもの
顕正会は「冨士大石寺」を騙(かた)り、一往「大御本尊への尊崇」を謳(うた)い、「日蓮正宗の教義」をマネしているため、つい議論が成立するように思いがちである。
しかし、すべての根拠が浅井の己義にある顕正会。
大聖人の教えとは似て非なる、日蓮正宗とは隔絶した、浅井教であると認識することが大切である。
(大白法第一〇一二号 令和元年九月一日)
しかし、その実状は、一方的に顕正会の主張をまくし立てるばかりで、ろくに会話もできないような有り様。
結局、まともに議論しても勝てないことが判っているのだろう。
それも当然のことで、浅井昭衛ら顕正会は日蓮正宗の教義を標榜(ひょうぼう)しながら、その内容は浅井の恣意(しい)的な解釈によって都合よく改変したものばかり。
いわば、論拠が浅井の己義なのだから、正しい教義に対応できるわけがない。
国立戒壇への執着
その代表的な事例が、浅井の執着する「国立戒壇論」である。
浅井は、あたかも「国立戒壇」の名称が日蓮大聖人以来の伝統教義であるかのように装い、「すべての御歴代上人が熱願されてきた」などと発言してきた。
しかし、この「国立戒壇」の名称は御書のどこにもない、明治期に、国柱会の田中智学が初めて使用したものである。
当家では、わずかに昭和中期頃に便宜上用いられたが、総本山第六十六世日達上人は、
「今日では『国立戒壇』という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう名称を使用しない」(大日蓮 二九二号)
と判断されたのである。
驚いたことに、この指摘に対して、ついにごまかしきれなくなった浅井は、
「日興上人以来明治にいたるまでの歴代先師上人は、御遺命の本門戒壇をどのように表現されてきたのかと言えば、『国立戒壇』との呼称こそないが・・・」(顕正新聞 平成三十一年三月五日付)
と、素知らぬ顔で認めてしまった。その上で、何の根拠も示さず、
「広宣流布の暁の『勅宣(ちょくせん)・御教書(みぎょうしょ)』による戒壇を即、御遺命の戒壇とされている。これまさしく『国立戒壇』ではないか」(同)
などと勝手な解釈。
この指導の続きには愚かにも、
「このように表現は変わっても・・・」(同)
と言っているが、「『国立戒壇』の名称を使用しない」という御指南は、「表現の変更」以外の何ものでもあるまい。
最早、浅井は、自分でも何を言っているのか判っていないのであろう。
血脈相承への珍説
唯授一人の血脈についても、浅井は根拠不明の珍説を主張している。
かつて浅井は、
「代を重ねること六十七、清浄の法水はいささかも断絶することなく今日に至っている」(富士 昭和六十一年十一月号)
「面授の儀式があろうとなかろうと、断絶もせず、色も替(かわ)らず、伝わるように出来ているんだ。これが御本仏の御仏智なのです」(顕正新聞 平成五年一月五日付)
と、第六十七世日顕上人へ至るまでの血脈相承を肯定していた。
ところが、その後日達上人から日顕上人への御相承を「授・受がお許しにならなかったため断絶した」と突如血脈を否定し始めた。
そして、
「大聖人様の御心に叶う正しい貫首上人が御出現になれば、そのとき、たちまちに正系門家の血脈は蘇(よみがえ)る。そういうことになっているのです」(顕正新聞 平成十一年四月二十五日付)
と、御書にも御歴代上人の御指南にもない珍説を唱え出したのである。
同じ人物の口から出た発言とは、到底信じられないが、浅井の己義、変幻自在は得意技。
違うというのであれば文証なり根拠なりを示すべきであろう。
似て非なるもの
顕正会は「冨士大石寺」を騙(かた)り、一往「大御本尊への尊崇」を謳(うた)い、「日蓮正宗の教義」をマネしているため、つい議論が成立するように思いがちである。
しかし、すべての根拠が浅井の己義にある顕正会。
大聖人の教えとは似て非なる、日蓮正宗とは隔絶した、浅井教であると認識することが大切である。
(大白法第一〇一二号 令和元年九月一日)