キリスト教のなかでも特異な教義解釈
社会常識を外(はず)れた輸血拒否などで軋轢(あつれき)
キリスト教系の新興宗教の一つとしてよく名が挙がるのが、ものみの塔聖書冊子教会こと「エホバの証人」である。
エホバの証人とは、一八七〇年代にチャールズ・テイズ・ラッセルによって設立された新興宗教で、信者数は全世界で約八百二十万人、日本には約二十一万人ほどいる、とされる。
一般には、伝道活動に熱心な宗教として知られ、特に独特な戒律を設け、輸血や献血の拒否、武道や格闘技、政治参加などを厳しく禁止することなどで知られている。
聖書はものみの塔聖書冊子教会が翻訳した「新世界訳聖書」なるものを作り、主流派キリスト教の基本条・三位一体論を否定するなどの独自の教義解釈を立てている。
すなわち、神は唯一神エホバ(ヤハウェ)だけでイエスは神の子であるが、神として崇拝はしないため、カトリックや正教会、プロテスタントなどの主流派キリスト教会が信じる三位一体説」や「イエス,キリストの神格化」などの基本信条を否定する立場をとっている。 それゆえ、異端、異教(キリスト教ではない宗教)とされている。
また「エホバの証人」という名称には、すべての創造者であるエホバについての真理を語る人、との意味が込められている、という。
さて、 エホバの証人と言えば、「大ちゃん事件」としてマスコミを騒がせた痛ましい事件があった。昭和六十年六月六日の午後、川崎市で自転車に乗っていた十歳の男児がダンプカーに接触し、転倒して両足を骨折した。救急搬送先の聖マリアンナ医科大学病院では、所見を「両下肢解放性骨折、入院六十日」とし、手術が予定されたが、輸血準備中にかけつけた両親が輸血を拒(こば)んだのである。 その理由は、両親がエホバの証人の信者であり、輸血は教義に反するからだという。病院側は両親に対して説得を続けたものの、他の信者もかけつけ、両親の意向は変わらず、ついに男児は約五時間後に出血多量で死亡した。報道されたところでは、両親は「今回、私達の息子(十歳)がたとえ死に至ることがあっても、輸血なしで万全の治療をしてくださるよう切にお願いします。輸血を受けることは、聖書にのっとって受けることは出来ません。昭和六十年六月六日」と記した決意書を病院に提出したという。また、医師がまだ意識のあった男児に「生きたいだろう」と声をかけ、父に翻意 (ほんい)を促(うなが)すよう求めた。 男児も「死にたくない、生きたい」と父に訴えたが、父は「聖書にある復活を信じているので、輸血には応じられない」として輸血を拒み通したという。
この事件で、医師は「速やかに輸血していれば救命できた」と述べたが、一方、神奈川県警が依頼した監察医は「輸血拒否と死亡との因果関係はない」と結論した。 それを踏まえて県警は、 ダンプカーの運転手については業務上過失致死罪容疑で送検し、両親について保護責任者遺棄罪などの刑事責任の追及はしない、と決している。
この事件においては、輸血拒否と死亡との因果関係はない、とされたが、他の様々な治療や手術において、輸血拒否が死につながる可能性は当然、高い。このようなエホバの証人の教義は、現代の普通の文明人 から見たら、常軌を逸(いっ)した教義と批判されても、いたしかたあるまい。
しかも、エホバの証人において輸血拒否が初めて発表されたのは、教義発足から七十五年後の昭和二十年(一九四五年)のことであり、現在の教義が正しいのならば、それ以前の聖書解釈は誤っていたことになる。さらに、常軌を逸した軽忽(きょうこつ)杜撰(ずさん)な教義ゆえ、この輸血問題以外にも、現実生活に支障をきたし、社会の中で摩擦を生じている事例が、数多く見受けられる。ところが、エホバの証人の信者はあたかも、自分たちこそが“神の教えを真に実践する者”であるかの聖人君子のような仮面を付けて近寄ってくる。じつに邪宗教の恐ろしさは、 誘法の害毒によって善悪の基準が常識を外れてしまっているのに、そのことにさえ疑問を感じなくなってしまうことだ。私たちは、これ以上、邪宗教の被害者を増やさないためにも、また一日も早く正法に目覚めさせるためにも、慈悲の折伏を急ごう。
(慧妙 令和二年七月一日)
社会常識を外(はず)れた輸血拒否などで軋轢(あつれき)
キリスト教系の新興宗教の一つとしてよく名が挙がるのが、ものみの塔聖書冊子教会こと「エホバの証人」である。
エホバの証人とは、一八七〇年代にチャールズ・テイズ・ラッセルによって設立された新興宗教で、信者数は全世界で約八百二十万人、日本には約二十一万人ほどいる、とされる。
一般には、伝道活動に熱心な宗教として知られ、特に独特な戒律を設け、輸血や献血の拒否、武道や格闘技、政治参加などを厳しく禁止することなどで知られている。
聖書はものみの塔聖書冊子教会が翻訳した「新世界訳聖書」なるものを作り、主流派キリスト教の基本条・三位一体論を否定するなどの独自の教義解釈を立てている。
すなわち、神は唯一神エホバ(ヤハウェ)だけでイエスは神の子であるが、神として崇拝はしないため、カトリックや正教会、プロテスタントなどの主流派キリスト教会が信じる三位一体説」や「イエス,キリストの神格化」などの基本信条を否定する立場をとっている。 それゆえ、異端、異教(キリスト教ではない宗教)とされている。
また「エホバの証人」という名称には、すべての創造者であるエホバについての真理を語る人、との意味が込められている、という。
さて、 エホバの証人と言えば、「大ちゃん事件」としてマスコミを騒がせた痛ましい事件があった。昭和六十年六月六日の午後、川崎市で自転車に乗っていた十歳の男児がダンプカーに接触し、転倒して両足を骨折した。救急搬送先の聖マリアンナ医科大学病院では、所見を「両下肢解放性骨折、入院六十日」とし、手術が予定されたが、輸血準備中にかけつけた両親が輸血を拒(こば)んだのである。 その理由は、両親がエホバの証人の信者であり、輸血は教義に反するからだという。病院側は両親に対して説得を続けたものの、他の信者もかけつけ、両親の意向は変わらず、ついに男児は約五時間後に出血多量で死亡した。報道されたところでは、両親は「今回、私達の息子(十歳)がたとえ死に至ることがあっても、輸血なしで万全の治療をしてくださるよう切にお願いします。輸血を受けることは、聖書にのっとって受けることは出来ません。昭和六十年六月六日」と記した決意書を病院に提出したという。また、医師がまだ意識のあった男児に「生きたいだろう」と声をかけ、父に翻意 (ほんい)を促(うなが)すよう求めた。 男児も「死にたくない、生きたい」と父に訴えたが、父は「聖書にある復活を信じているので、輸血には応じられない」として輸血を拒み通したという。
この事件で、医師は「速やかに輸血していれば救命できた」と述べたが、一方、神奈川県警が依頼した監察医は「輸血拒否と死亡との因果関係はない」と結論した。 それを踏まえて県警は、 ダンプカーの運転手については業務上過失致死罪容疑で送検し、両親について保護責任者遺棄罪などの刑事責任の追及はしない、と決している。
この事件においては、輸血拒否と死亡との因果関係はない、とされたが、他の様々な治療や手術において、輸血拒否が死につながる可能性は当然、高い。このようなエホバの証人の教義は、現代の普通の文明人 から見たら、常軌を逸(いっ)した教義と批判されても、いたしかたあるまい。
しかも、エホバの証人において輸血拒否が初めて発表されたのは、教義発足から七十五年後の昭和二十年(一九四五年)のことであり、現在の教義が正しいのならば、それ以前の聖書解釈は誤っていたことになる。さらに、常軌を逸した軽忽(きょうこつ)杜撰(ずさん)な教義ゆえ、この輸血問題以外にも、現実生活に支障をきたし、社会の中で摩擦を生じている事例が、数多く見受けられる。ところが、エホバの証人の信者はあたかも、自分たちこそが“神の教えを真に実践する者”であるかの聖人君子のような仮面を付けて近寄ってくる。じつに邪宗教の恐ろしさは、 誘法の害毒によって善悪の基準が常識を外れてしまっているのに、そのことにさえ疑問を感じなくなってしまうことだ。私たちは、これ以上、邪宗教の被害者を増やさないためにも、また一日も早く正法に目覚めさせるためにも、慈悲の折伏を急ごう。
(慧妙 令和二年七月一日)