心理学に「確証バイアス」というものがある。
端的に説明すると、「人間は自分の主義。主張に対して、無意識のうちに都合のいい情報やデータばかりに目を止め、都合の悪い情報は無視したり軽視する傾向にある」ということだ。
顕正新聞の新年号(令和二年一月五日付) を見ていると、ふっとこの言葉が浮かんできた。
例えば、複数の幹部の発表や決意原稿で、正信会の僧侶が顕正会に賛同したことを「有羞(うしゅう)の僧が出現」と、嬉々(きき)として紹介している。何故、宗門と無関係の団体 (中には大御本尊を否定する者までいる) の人間から賛同されて大喜びしているのか理解に苦しむが、まさに「宗門と無関係」という都合の悪い事柄を無視した状況である。
そもそも、彼らの論拠は「浅井の発言」がすべてであるから、「確証バイアス」というよりも「盲信」と言ったほうが妥当であろう。
事実をとことん無視
もっとも、会長。浅井昭衛は、「無意識」ではなく「意図的」に都合の悪い事実を無視して指導をしていると思われる。
この新年号には昨年十二月度総幹部会の指導が掲載され、冒頭より長々と「国立戒壇論」について述べている。
御書のどこにもない「国立戒壇論」については、既に破折し尽くされているが、これを無視し、
「日蓮大聖人の唯一の御遺命が、広宣流布の暁(あかつき)の国立戒壇であることは三大秘法抄・一期弘法(いっきぐほう)抄に赫々明々(かくかくめいめい)であります。ゆえに正系門家・富士大石寺においては日興上人・日目上人以来七百年、この国立戒壇建立を唯一の宿願・唯一の大目的としてきたのであります」(顕正新聞 令和二年1月五日付)
などと、従来の主張を繰り返す。
さらには、日達上人·日顕上人への恨み辛(つら)みをつらつら述べて、これもまた実際に拝した多くの人の「すばらしい御相貌」との証言を無視して、「細井日達は (中略)その臨終の悪相は箝口令(かんこうれい)も虚(むな)しく、今や全宗門周知となった。
さらに阿部日顕は (中略)その臨終の相は、細井日達と同じく後日、必ずその真相が明らかになるに違いない」(同)
と述べている。 緋誇中傷以外の何ものでもない。
知らぬ存ぜぬの偽本尊疑惑
また、この指導では顕正会の「遥拝(ようはい)動行」について、
「広布前夜には、必ず御遺命が第六天の魔王によって破壊されんとする。 そのとき、もしその大悪を諌(いさ)めれば、必ず解散処分を受ける。その解
散処分を乗り越えて、始めて広宣流布が成し遂げられるのです。
ゆえに私は、遥拝勤行こそ広宣最終段階の信行の姿である、これ大聖人様が教えて下さったものと、深く拝しております」(同)
としている。
それほどまでに「御本尊がなくても遥拝動行すればいい」「むしろ遥拝勤行こそ正しい」のであれば、何故、御本尊を下付して個人宅の拠点を増やしたり、全
国各地に会館を建立して御本尊を安置するのか。ましてや、それらの御本尊、特に会館に安置しているという、 日蓮正宗には全く存在しない「日布上人の
大幅の形木本尊」なる本尊とは、どこから出てきたものなのか。
この偽(にせ)本尊疑惑への指摘に対して、まことに都合が悪いであろう浅井は、一切弁明できず、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。
宗門に反論不能
このようなご都合主義の浅井の姿は、自らを信じ込ませるためのもの。裏を返せば、宗門からの破折に対してまともに反論できない
ことの証左(しょうさ)でもある。
実際に、最近の顕正会の活動家たちは、先に宗門から出版された『顕正会破折Q&A』を手に破折する法華講員に対し、返答に窮し
て「誰が書いたのか言えっ」などと喚(わめ)いているそうだ。(日蓮正宗の公式出版物である!) 自分で考えることをやめてしまった会員こそ哀れ。
本宗僧俗は、浅井ら顕正会の詭弁(きべん)に惑(まど)わされることなく、毅然と折伏を断行しよう。
(大白法 第一〇二四号 令和二年三月一日)
端的に説明すると、「人間は自分の主義。主張に対して、無意識のうちに都合のいい情報やデータばかりに目を止め、都合の悪い情報は無視したり軽視する傾向にある」ということだ。
顕正新聞の新年号(令和二年一月五日付) を見ていると、ふっとこの言葉が浮かんできた。
例えば、複数の幹部の発表や決意原稿で、正信会の僧侶が顕正会に賛同したことを「有羞(うしゅう)の僧が出現」と、嬉々(きき)として紹介している。何故、宗門と無関係の団体 (中には大御本尊を否定する者までいる) の人間から賛同されて大喜びしているのか理解に苦しむが、まさに「宗門と無関係」という都合の悪い事柄を無視した状況である。
そもそも、彼らの論拠は「浅井の発言」がすべてであるから、「確証バイアス」というよりも「盲信」と言ったほうが妥当であろう。
事実をとことん無視
もっとも、会長。浅井昭衛は、「無意識」ではなく「意図的」に都合の悪い事実を無視して指導をしていると思われる。
この新年号には昨年十二月度総幹部会の指導が掲載され、冒頭より長々と「国立戒壇論」について述べている。
御書のどこにもない「国立戒壇論」については、既に破折し尽くされているが、これを無視し、
「日蓮大聖人の唯一の御遺命が、広宣流布の暁(あかつき)の国立戒壇であることは三大秘法抄・一期弘法(いっきぐほう)抄に赫々明々(かくかくめいめい)であります。ゆえに正系門家・富士大石寺においては日興上人・日目上人以来七百年、この国立戒壇建立を唯一の宿願・唯一の大目的としてきたのであります」(顕正新聞 令和二年1月五日付)
などと、従来の主張を繰り返す。
さらには、日達上人·日顕上人への恨み辛(つら)みをつらつら述べて、これもまた実際に拝した多くの人の「すばらしい御相貌」との証言を無視して、「細井日達は (中略)その臨終の悪相は箝口令(かんこうれい)も虚(むな)しく、今や全宗門周知となった。
さらに阿部日顕は (中略)その臨終の相は、細井日達と同じく後日、必ずその真相が明らかになるに違いない」(同)
と述べている。 緋誇中傷以外の何ものでもない。
知らぬ存ぜぬの偽本尊疑惑
また、この指導では顕正会の「遥拝(ようはい)動行」について、
「広布前夜には、必ず御遺命が第六天の魔王によって破壊されんとする。 そのとき、もしその大悪を諌(いさ)めれば、必ず解散処分を受ける。その解
散処分を乗り越えて、始めて広宣流布が成し遂げられるのです。
ゆえに私は、遥拝勤行こそ広宣最終段階の信行の姿である、これ大聖人様が教えて下さったものと、深く拝しております」(同)
としている。
それほどまでに「御本尊がなくても遥拝動行すればいい」「むしろ遥拝勤行こそ正しい」のであれば、何故、御本尊を下付して個人宅の拠点を増やしたり、全
国各地に会館を建立して御本尊を安置するのか。ましてや、それらの御本尊、特に会館に安置しているという、 日蓮正宗には全く存在しない「日布上人の
大幅の形木本尊」なる本尊とは、どこから出てきたものなのか。
この偽(にせ)本尊疑惑への指摘に対して、まことに都合が悪いであろう浅井は、一切弁明できず、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。
宗門に反論不能
このようなご都合主義の浅井の姿は、自らを信じ込ませるためのもの。裏を返せば、宗門からの破折に対してまともに反論できない
ことの証左(しょうさ)でもある。
実際に、最近の顕正会の活動家たちは、先に宗門から出版された『顕正会破折Q&A』を手に破折する法華講員に対し、返答に窮し
て「誰が書いたのか言えっ」などと喚(わめ)いているそうだ。(日蓮正宗の公式出版物である!) 自分で考えることをやめてしまった会員こそ哀れ。
本宗僧俗は、浅井ら顕正会の詭弁(きべん)に惑(まど)わされることなく、毅然と折伏を断行しよう。
(大白法 第一〇二四号 令和二年三月一日)