戒壇大御本尊の建立意義(こんりゅういぎ)とその背景
戒壇大御本尊御図顕(ごずげん)の契機(けいぎ)は熱原法難時を感じられ「余は二十七年なり」と
今回は、邪宗徒が当宗を誹謗(ひぼう)する際の最大の標的としてくる本門戒壇の大御本尊について、建立の意義とその背景について述べていく。
本門戒壇の大御本尊は、仏法の極理、一切衆生成仏の直道であり、大聖人究竟中の究竟なるがゆえに、門外漢の輩(やから)にはとうてい理解できぬ法体たることは当然至極だが、大御本尊建立の経緯と意義を明確にして、正義を示しておきたい。
大聖人は、突如として本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのではなく、御本仏としての御化導の順序次第の上から、任蓮の仏意により本懐を成就されたのである。
そして、本懐である大御本尊建立に至る要因には、外的と内的との両面が拝せられる。
まず、外的要因として、最も重要な大御本尊建立の契機となる熱原法難がある。
文永十一年(一二七四年)、佐渡流罪を赦免(しゃめん)された大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は甲斐・駿河・伊豆方面への折伏弘教を展開されており、特に幼少時代に修行した富士地方の藤原四十九院・岩本実相寺を中心に、飛躍的に教線が伸びていた。
それにともない天台宗の古刹(こさつ)・龍泉寺の僧である下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅等が帰伏改宗した。さらには日秀師等の教化により、熱原郷の農民たちから信頼されていた神四郎ら三兄弟が帰依するなど、その後も入信者は後を絶たなかった。
この状況に危機感をおぼえた龍泉寺の院主代・行智は、幕府の要人であった平左衛門尉を後ろ盾に、政所(まんどころ)の役人と結託して熱原の法華講衆を弾圧する機会を狙っていた。
そして弘安二年(一二七九年)九月二十一日、行智は、多くの法華講衆が下野房日秀師の田の稲刈りを手伝っていることを聞きつけ、武士たちを駆り集めて押しかけ、農民たちに手傷を負わせたのである。神四郎以下二十名はその場で取り押さえられ、下方政所へ拘留された。
さらに行智は、神四郎の兄・弥藤次の名をもって、神四郎等を罪人に仕立てあげる卑劣な訴状を作り、鎌倉の問注所に告訴するとともに、農民たちをその日のうちに鎌倉へ押送(おうそう)したのである。
この事件の知らせを受けた日興上人は、すぐさま、その状況を身延の大聖人に報告された。これを聞かれた大聖人は、熱原の信徒たちのことを深く思いやられ、さっそく『聖人御難事』を認(したた)めて門下一同の団結と奮起をうながされるとともに、『龍泉寺申状』を選し、日興上人に清書させて問注所に提出するよう命じられた。
十月十五日、平左衛門尉は熱原の信徒に対し尋問を執り行ったが、事件の真相を問い糾すこともなく、
「速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えよ。さもなくば重罪に処す」と威嚇(いかく)した。しかし、常に法華経への信仰を教えられていた神四郎たちは、ひたすら題目を唱え続けたのである。
この農民たちの唱題の声に激怒した平左衛門尉は、蟇目(ひきめ)の矢を射させて拷問を加えたが、しかし法華講衆の信念は微動だにすることなく、唱題の声はますます高くなるばかりで、これにより狂乱の極に達した平左衛門尉は、無惨にも、農民の中心者であった神四郎ら三人を斬首するという、非道な処置を下したのである。残りの十七人の農民は放免されたが、この悪逆を行った平左衛門尉父子は、これより十四年後、謀反(むほん)の罪より誅殺(ちゅうさつ)せられ、還著於本人(げんじゃくおうほんにん)の法華経の現罰が下ったのである。
以上が熱原法難の概略である。
さて、この熱原の法難においては、一文不通で身分の低い百姓の信徒が、大難に屈することなく身命を捨てて正法を信じ貫くという、世の名僧や武家も及ばぬ信力行力の姿勢を示した。大聖人は、入信まもない熱原の農民たちの不自惜身命の信心を嘉(よみ)せられ、いよいよ下種仏法の究竟の法体を建立する大因縁の時の到来を感じられたのである。
弘安二年十月一日にお認めになられた『聖人御難事』には、
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(御書 一三九六頁)
と、今こそ出生の本懐を遂げるときであることを与証されている。
そして熱原法難の弾圧の吹き荒れるなか、弘安二年(一二七九年)十月十二日、本門戒壇の大御本尊を檜の厚き板に御図顕され、弟子の日法師に彫刻を命ぜられたのである。
釈尊の脱益仏法の域から出ず、いまだ仏像に執着する日蓮宗の者どもには、とうてい理解し難い本尊図顕の御化導の深義がそこにあるのだ。
なお、先に引用した『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意について一言しておく。
この御文につき、古来、日蓮宗では『出生の本懐ではなく法難の年数を示している』などの誤読をしているが、正訳は「余は二十七年(にして出生の本懐を遂ぐる)なり」との意である。
一連の御文の中の釈尊、天台、伝教の三国三師における四十余年、三十余年、二十余年の数字は、すべて出生の本懐までの年数を示しており、その文脈の流れから、大聖人においても、二十七年は出生の本懐までの年数を示す。と拝するのがごく自然な解釈である。
もし大聖人自身について出生の本懐を述べる意図がなかったならば、あえて三師の本懐までの年数も示す必要がないのである。
つまり、「仏・天台・伝教の長年の大難申しばかりなし」とすればよいはずである。
また、大聖人が二十七年の年限を述べた箇処で「出生の本懐」との語句を省略されたのは、前文との関係より重複を避けて、語に格調と余韻を顕わすため隠文顕義の意から略されたからだ。
そうでなければ、前文の釈尊、天台、伝教の三師に関する「出生の本懐」の語がまったく不要で意味のないものとなる。これらは日本語の常識であり、虚心坦懐に拝すれば誰でも解ることだ。
ともかく、『聖人御難事』の御文や、熱原法難にみる一文不通の農民による死身弘法の信行という外面的な要因から、大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立された経緯は明らかである。
(慧妙 平成三十年十二月一日号)
戒壇大御本尊御図顕(ごずげん)の契機(けいぎ)は熱原法難時を感じられ「余は二十七年なり」と
今回は、邪宗徒が当宗を誹謗(ひぼう)する際の最大の標的としてくる本門戒壇の大御本尊について、建立の意義とその背景について述べていく。
本門戒壇の大御本尊は、仏法の極理、一切衆生成仏の直道であり、大聖人究竟中の究竟なるがゆえに、門外漢の輩(やから)にはとうてい理解できぬ法体たることは当然至極だが、大御本尊建立の経緯と意義を明確にして、正義を示しておきたい。
大聖人は、突如として本門戒壇の大御本尊を御図顕されたのではなく、御本仏としての御化導の順序次第の上から、任蓮の仏意により本懐を成就されたのである。
そして、本懐である大御本尊建立に至る要因には、外的と内的との両面が拝せられる。
まず、外的要因として、最も重要な大御本尊建立の契機となる熱原法難がある。
文永十一年(一二七四年)、佐渡流罪を赦免(しゃめん)された大聖人が身延に入山されたあと、日興上人は甲斐・駿河・伊豆方面への折伏弘教を展開されており、特に幼少時代に修行した富士地方の藤原四十九院・岩本実相寺を中心に、飛躍的に教線が伸びていた。
それにともない天台宗の古刹(こさつ)・龍泉寺の僧である下野房日秀、越後房日弁、少輔房日禅等が帰伏改宗した。さらには日秀師等の教化により、熱原郷の農民たちから信頼されていた神四郎ら三兄弟が帰依するなど、その後も入信者は後を絶たなかった。
この状況に危機感をおぼえた龍泉寺の院主代・行智は、幕府の要人であった平左衛門尉を後ろ盾に、政所(まんどころ)の役人と結託して熱原の法華講衆を弾圧する機会を狙っていた。
そして弘安二年(一二七九年)九月二十一日、行智は、多くの法華講衆が下野房日秀師の田の稲刈りを手伝っていることを聞きつけ、武士たちを駆り集めて押しかけ、農民たちに手傷を負わせたのである。神四郎以下二十名はその場で取り押さえられ、下方政所へ拘留された。
さらに行智は、神四郎の兄・弥藤次の名をもって、神四郎等を罪人に仕立てあげる卑劣な訴状を作り、鎌倉の問注所に告訴するとともに、農民たちをその日のうちに鎌倉へ押送(おうそう)したのである。
この事件の知らせを受けた日興上人は、すぐさま、その状況を身延の大聖人に報告された。これを聞かれた大聖人は、熱原の信徒たちのことを深く思いやられ、さっそく『聖人御難事』を認(したた)めて門下一同の団結と奮起をうながされるとともに、『龍泉寺申状』を選し、日興上人に清書させて問注所に提出するよう命じられた。
十月十五日、平左衛門尉は熱原の信徒に対し尋問を執り行ったが、事件の真相を問い糾すこともなく、
「速やかに法華の題目を捨てて念仏を称えよ。さもなくば重罪に処す」と威嚇(いかく)した。しかし、常に法華経への信仰を教えられていた神四郎たちは、ひたすら題目を唱え続けたのである。
この農民たちの唱題の声に激怒した平左衛門尉は、蟇目(ひきめ)の矢を射させて拷問を加えたが、しかし法華講衆の信念は微動だにすることなく、唱題の声はますます高くなるばかりで、これにより狂乱の極に達した平左衛門尉は、無惨にも、農民の中心者であった神四郎ら三人を斬首するという、非道な処置を下したのである。残りの十七人の農民は放免されたが、この悪逆を行った平左衛門尉父子は、これより十四年後、謀反(むほん)の罪より誅殺(ちゅうさつ)せられ、還著於本人(げんじゃくおうほんにん)の法華経の現罰が下ったのである。
以上が熱原法難の概略である。
さて、この熱原の法難においては、一文不通で身分の低い百姓の信徒が、大難に屈することなく身命を捨てて正法を信じ貫くという、世の名僧や武家も及ばぬ信力行力の姿勢を示した。大聖人は、入信まもない熱原の農民たちの不自惜身命の信心を嘉(よみ)せられ、いよいよ下種仏法の究竟の法体を建立する大因縁の時の到来を感じられたのである。
弘安二年十月一日にお認めになられた『聖人御難事』には、
「此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其の中の大難申す計(ばか)りなし。先々に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」
(御書 一三九六頁)
と、今こそ出生の本懐を遂げるときであることを与証されている。
そして熱原法難の弾圧の吹き荒れるなか、弘安二年(一二七九年)十月十二日、本門戒壇の大御本尊を檜の厚き板に御図顕され、弟子の日法師に彫刻を命ぜられたのである。
釈尊の脱益仏法の域から出ず、いまだ仏像に執着する日蓮宗の者どもには、とうてい理解し難い本尊図顕の御化導の深義がそこにあるのだ。
なお、先に引用した『聖人御難事』の「余は二十七年なり」の文意について一言しておく。
この御文につき、古来、日蓮宗では『出生の本懐ではなく法難の年数を示している』などの誤読をしているが、正訳は「余は二十七年(にして出生の本懐を遂ぐる)なり」との意である。
一連の御文の中の釈尊、天台、伝教の三国三師における四十余年、三十余年、二十余年の数字は、すべて出生の本懐までの年数を示しており、その文脈の流れから、大聖人においても、二十七年は出生の本懐までの年数を示す。と拝するのがごく自然な解釈である。
もし大聖人自身について出生の本懐を述べる意図がなかったならば、あえて三師の本懐までの年数も示す必要がないのである。
つまり、「仏・天台・伝教の長年の大難申しばかりなし」とすればよいはずである。
また、大聖人が二十七年の年限を述べた箇処で「出生の本懐」との語句を省略されたのは、前文との関係より重複を避けて、語に格調と余韻を顕わすため隠文顕義の意から略されたからだ。
そうでなければ、前文の釈尊、天台、伝教の三師に関する「出生の本懐」の語がまったく不要で意味のないものとなる。これらは日本語の常識であり、虚心坦懐に拝すれば誰でも解ることだ。
ともかく、『聖人御難事』の御文や、熱原法難にみる一文不通の農民による死身弘法の信行という外面的な要因から、大聖人が本門戒壇の大御本尊を建立された経緯は明らかである。
(慧妙 平成三十年十二月一日号)