【創立】昭和13年3月
【創始者】庭野日敬(開祖)、長沼妙佼(脇祖)
【現会長】庭野日鑛(にわのにちこう)(日敬の長男)
【信仰の対象】久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
【教典】『妙法蓮華経』『日蓮聖人遺文』『法華三部経』
1.教団の沿革
「立正佼成会」は霊友会から分派した教団です。昭和十三年、庭野日敬(にっきょう)(鹿蔵)を会長に長沼妙佼(みょうこう)(マサ)を副会長として、霊友会を脱会したわずか三十人余りの人数で結成しました。
当初の教団名は「大日本立正交成会」といい、東京都中野にあった会長・庭野日敬の自宅を本部として発足しました。
霊友会と同じ在家教団です。
今では東京都杉並区和田に本部を構え、その敷地内には、大聖堂と称する礼拝所をはじめ、学校、出版社、劇場、研修所、病院等が軒のきを並べています。
機関紙「佼成新聞」は、月四回百六十万部で、月刊誌「佼成」は百六十四万部で、その外にも種々の出版物を発行しています。
庭野日敬が新訳したという法華経三部経を所依の教義書とし、四諦法門、十二因縁、六波羅蜜・八正道等 を基本的教えとしています。会員になると、総戒名をまつることから始めます。
そして、経文(法華経の各品)の一部分を抜き出し、訓読(「我仏われほとけを得えてより来このかた……」の読み方)の方法で、朝夕勤行をします。それを「ご供養」といっています。
本尊といわれるものは、かなりの幹部にならなければもらえません。
グループの座談会を「法座」といい、会員はそこを信仰修練の場としています。幹部の指導を受けることを「結んでもらう」といい、また、病気にかかったり、災難にあったりするのは仏の慈悲のムチであるから、有り難い試練として自分の修行に採とり入れていく、これを「お悟り」と教えています。
昭和四十五年に、会員は約九十五万人位でしたが、平成五年には六百五十二万人(宗教年鑑より)といいますから、新興宗教では創価学会に次ぐ第二の勢力です。
佼成会の主たる内容は霊友会譲りですが、もう一つ奥に、霊友会の元となった西田利蔵の仏所護念会(関口嘉一の会とは異なる)の尾を引くことも忘れてはなりません。
西田利蔵は、その昔仏ぶつ立りゅう講こうに関係があった人、ともいわれます。
さて、他宗批判は宗教に悖もとるとして、「万教同根」を主義とする点は、生長の家と同類です。
その主張が認められたのか、庭野日敬は過日、新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長にもなりました。
まず初めに、この教団の大枠をつかんでいただくために、「会員綱領」を挙げてみます。
「立正佼成会会員は、恩師会長先生のご指導に基づき、仏教の本質的な救われ方を認識し、在家仏教の精神に立脚して、人格完成の目的を達成するため、信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、多くの人々を導きつつ自己の錬成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身することを期す」(青年部教材)
現在の佼成会は二代目の日鑛にちこうが会長です。そして、日敬は開祖、妙佼は脇祖と呼ばれています。
2.教団の起こり
新潟で生まれた日敬は十八才の時上京し、米屋や炭屋に勤め、後に漬物屋や牛乳販売を生業なりわいとし、生計を立てていました。
その間、様々な宗教や占い等に関係しながら霊友会に入会します。
子供の病気を予言され、それが当たったのをきっかけに入会し、その後、先祖の霊を祀まつったら子供の病気が治ったといいます。
この現証に魅みされた日敬は、ついに霊友会の強信者となり、布教陣の筆頭格にのし上がりました。
一方、牛乳の配達先であった客人の中に、病気がちな焼芋屋のかみさんがいました。病気が治りたい一心で、日敬に勧
すすめられて入会しました。それが長沼マサ、後の妙佼です。
焼芋屋の店員として働いていた甥おいが、ある時腹痛をおこしたが、先祖供養によって不思議にも治った。その現証を見た妙佼は、全く人が変わったように霊友会にのめりこんでいきます。
こうして日敬と妙佼のコンビが誕生し、霊友会の布教に加担していったのです。
日敬の霊友会への入信窓口となり、しかもその後の指導者でもあった支部長の新井助信は、よく法華経の講義をしており、日敬はその講義を聴くのを好んだようです。
日敬・妙佼が霊友会を脱会した経緯については、霊友会の会長・小谷キミが全国支部長会議の席上で、次のような発言をしたからとされます。
「突然、正面にすわっていた小谷キミ会長が荒々しく演壇に立つと、激しくみんなを非難した。そして『法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ』とさえ放言した」(三十年の歩み)
「帰り道、庭野青年は長沼マサさんを訪れると、会議の一部始終を話した。そして、脱会の決意を語った……
翌朝、恩師の新井先生に会い、ふたりの決心は不動のものとなった」(三十年の歩み)
日敬が霊友会に入って三年半、妙佼は二年、昭和十三年の一月のことでした。
こうして脱会した二人は同年三月五日、大日本立正交成会を結成したのです。
3.総括批判
佼成会の特徴を総括すると、大体次の四点にしぼられます。
一、日敬が青年期にかかわった多種な迷信や信仰内容。
二、大半が霊友会のマネ。
三、日敬の我見による法華経解釈
四、大聖人の教えとはおよそ関係のない教団。
等ですが、三と四は後述するとしてここでは一と二について少々述べておきます。
日敬は霊友会に縁する前、勤め先の主人石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や九星(一白・二黒・三碧等)あるいは易占いによる方位方角や五行説等を学んでいました。
また小林晟高せいこうという人からは姓名判断、運勢鑑定を学び、後の佼成会で大いに利用したようです。二十六才の頃、長女の中耳炎を治そうとして、天狗不動の拝み屋・綱つな木き梅うめ野のに関係し、九字を切ったり加持祈祷、水行、穀物断ちや火物断ち等を修行し、ついには弟子にまでなったのです。
日敬は佼成会発足後、教勢を伸ばすに当たって、これら迷信・俗信・占い・祈祷何でも採り入れ、布教の手段としました。
今でも多分にその色が残っているといわれます。
また、「教菩薩法、仏所護念」と書いたタスキに始まり、青経巻(経本)・霊鑑(過去帖)・総戒名(先祖供養)までが霊友会と全く同じです。
その外、他宗を容認し、慈善事業、平和運動等を推進するのも霊友会譲りです。
要するに佼成会は、長沼妙佼の霊媒的要素と日敬がかかわった外道の邪義とがその大部分をしめます。
そして、祖霊信仰が基となっている霊友会の先祖供養を継承し、独自に解釈した法華経を加えて教義の屋台骨としているのです。
大白法・平成6年5月16日、6月16日、7月16日刊(第409・411・413号)新興宗教破折より
【創始者】庭野日敬(開祖)、長沼妙佼(脇祖)
【現会長】庭野日鑛(にわのにちこう)(日敬の長男)
【信仰の対象】久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊
【教典】『妙法蓮華経』『日蓮聖人遺文』『法華三部経』
1.教団の沿革
「立正佼成会」は霊友会から分派した教団です。昭和十三年、庭野日敬(にっきょう)(鹿蔵)を会長に長沼妙佼(みょうこう)(マサ)を副会長として、霊友会を脱会したわずか三十人余りの人数で結成しました。
当初の教団名は「大日本立正交成会」といい、東京都中野にあった会長・庭野日敬の自宅を本部として発足しました。
霊友会と同じ在家教団です。
今では東京都杉並区和田に本部を構え、その敷地内には、大聖堂と称する礼拝所をはじめ、学校、出版社、劇場、研修所、病院等が軒のきを並べています。
機関紙「佼成新聞」は、月四回百六十万部で、月刊誌「佼成」は百六十四万部で、その外にも種々の出版物を発行しています。
庭野日敬が新訳したという法華経三部経を所依の教義書とし、四諦法門、十二因縁、六波羅蜜・八正道等 を基本的教えとしています。会員になると、総戒名をまつることから始めます。
そして、経文(法華経の各品)の一部分を抜き出し、訓読(「我仏われほとけを得えてより来このかた……」の読み方)の方法で、朝夕勤行をします。それを「ご供養」といっています。
本尊といわれるものは、かなりの幹部にならなければもらえません。
グループの座談会を「法座」といい、会員はそこを信仰修練の場としています。幹部の指導を受けることを「結んでもらう」といい、また、病気にかかったり、災難にあったりするのは仏の慈悲のムチであるから、有り難い試練として自分の修行に採とり入れていく、これを「お悟り」と教えています。
昭和四十五年に、会員は約九十五万人位でしたが、平成五年には六百五十二万人(宗教年鑑より)といいますから、新興宗教では創価学会に次ぐ第二の勢力です。
佼成会の主たる内容は霊友会譲りですが、もう一つ奥に、霊友会の元となった西田利蔵の仏所護念会(関口嘉一の会とは異なる)の尾を引くことも忘れてはなりません。
西田利蔵は、その昔仏ぶつ立りゅう講こうに関係があった人、ともいわれます。
さて、他宗批判は宗教に悖もとるとして、「万教同根」を主義とする点は、生長の家と同類です。
その主張が認められたのか、庭野日敬は過日、新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長にもなりました。
まず初めに、この教団の大枠をつかんでいただくために、「会員綱領」を挙げてみます。
「立正佼成会会員は、恩師会長先生のご指導に基づき、仏教の本質的な救われ方を認識し、在家仏教の精神に立脚して、人格完成の目的を達成するため、信仰を基盤とした行学二道の研修に励み、多くの人々を導きつつ自己の錬成に努め、家庭・社会・国家・世界の平和境(常寂光土)建設のため、菩薩行に挺身することを期す」(青年部教材)
現在の佼成会は二代目の日鑛にちこうが会長です。そして、日敬は開祖、妙佼は脇祖と呼ばれています。
2.教団の起こり
新潟で生まれた日敬は十八才の時上京し、米屋や炭屋に勤め、後に漬物屋や牛乳販売を生業なりわいとし、生計を立てていました。
その間、様々な宗教や占い等に関係しながら霊友会に入会します。
子供の病気を予言され、それが当たったのをきっかけに入会し、その後、先祖の霊を祀まつったら子供の病気が治ったといいます。
この現証に魅みされた日敬は、ついに霊友会の強信者となり、布教陣の筆頭格にのし上がりました。
一方、牛乳の配達先であった客人の中に、病気がちな焼芋屋のかみさんがいました。病気が治りたい一心で、日敬に勧
すすめられて入会しました。それが長沼マサ、後の妙佼です。
焼芋屋の店員として働いていた甥おいが、ある時腹痛をおこしたが、先祖供養によって不思議にも治った。その現証を見た妙佼は、全く人が変わったように霊友会にのめりこんでいきます。
こうして日敬と妙佼のコンビが誕生し、霊友会の布教に加担していったのです。
日敬の霊友会への入信窓口となり、しかもその後の指導者でもあった支部長の新井助信は、よく法華経の講義をしており、日敬はその講義を聴くのを好んだようです。
日敬・妙佼が霊友会を脱会した経緯については、霊友会の会長・小谷キミが全国支部長会議の席上で、次のような発言をしたからとされます。
「突然、正面にすわっていた小谷キミ会長が荒々しく演壇に立つと、激しくみんなを非難した。そして『法華経の講義なんて時代遅れだ。そんなことをするのは悪魔だ』とさえ放言した」(三十年の歩み)
「帰り道、庭野青年は長沼マサさんを訪れると、会議の一部始終を話した。そして、脱会の決意を語った……
翌朝、恩師の新井先生に会い、ふたりの決心は不動のものとなった」(三十年の歩み)
日敬が霊友会に入って三年半、妙佼は二年、昭和十三年の一月のことでした。
こうして脱会した二人は同年三月五日、大日本立正交成会を結成したのです。
3.総括批判
佼成会の特徴を総括すると、大体次の四点にしぼられます。
一、日敬が青年期にかかわった多種な迷信や信仰内容。
二、大半が霊友会のマネ。
三、日敬の我見による法華経解釈
四、大聖人の教えとはおよそ関係のない教団。
等ですが、三と四は後述するとしてここでは一と二について少々述べておきます。
日敬は霊友会に縁する前、勤め先の主人石原淑太郎から六曜(先勝・友引・仏滅等)や九星(一白・二黒・三碧等)あるいは易占いによる方位方角や五行説等を学んでいました。
また小林晟高せいこうという人からは姓名判断、運勢鑑定を学び、後の佼成会で大いに利用したようです。二十六才の頃、長女の中耳炎を治そうとして、天狗不動の拝み屋・綱つな木き梅うめ野のに関係し、九字を切ったり加持祈祷、水行、穀物断ちや火物断ち等を修行し、ついには弟子にまでなったのです。
日敬は佼成会発足後、教勢を伸ばすに当たって、これら迷信・俗信・占い・祈祷何でも採り入れ、布教の手段としました。
今でも多分にその色が残っているといわれます。
また、「教菩薩法、仏所護念」と書いたタスキに始まり、青経巻(経本)・霊鑑(過去帖)・総戒名(先祖供養)までが霊友会と全く同じです。
その外、他宗を容認し、慈善事業、平和運動等を推進するのも霊友会譲りです。
要するに佼成会は、長沼妙佼の霊媒的要素と日敬がかかわった外道の邪義とがその大部分をしめます。
そして、祖霊信仰が基となっている霊友会の先祖供養を継承し、独自に解釈した法華経を加えて教義の屋台骨としているのです。
大白法・平成6年5月16日、6月16日、7月16日刊(第409・411・413号)新興宗教破折より