折伏について、大聖人様は『阿仏房尼御前御返事』に、
『いふといはざるとの重罪免(まぬが)れ難し。云ひて罪のまぬがるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤(もっと)も然(しか)るべきなり』(御書 九0六㌻)
と仰せであります。
すなわち、謗法の者に対して折伏を行じない者の罪は極めて重く、折伏を行じてその罪を免(まぬが)れるべきところを、ただ見ておいて、そのままにして謗法を誡(いまし)めない者は「眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲」であると厳しく仰せであります。
「眼耳の二徳」とは、まさしく物事を見たり聞いたりする能力、さらにそうして得た知識・経験を言い、謗法を見聞して、呵責(かしゃく)もせずにそのままにしておけば、眼と耳の徳を破ることになるとおっしゃっているのです。
故に、章安大師は「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是彼が怨(あだ)なり」と述べられて、慈悲もなく、折伏も行ぜず、詐(いつわ)り親しむ者の重罪は消滅することが困難であるから、もし謗ずる者があれば、これを誡めて慈悲の折伏を行じ、利益を被(こうむ)らせてあげることが肝要であると仰せられているのであります。
(大白法九五三号 三月度広布唱題会の砌)
『いふといはざるとの重罪免(まぬが)れ難し。云ひて罪のまぬがるべきを、見ながら聞きながら置いていましめざる事、眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲なり。章安の云はく「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是彼が怨なり」等云云。重罪消滅しがたし。弥(いよいよ)利益の心尤(もっと)も然(しか)るべきなり』(御書 九0六㌻)
と仰せであります。
すなわち、謗法の者に対して折伏を行じない者の罪は極めて重く、折伏を行じてその罪を免(まぬが)れるべきところを、ただ見ておいて、そのままにして謗法を誡(いまし)めない者は「眼耳の二徳忽(たちま)ちに破れて大無慈悲」であると厳しく仰せであります。
「眼耳の二徳」とは、まさしく物事を見たり聞いたりする能力、さらにそうして得た知識・経験を言い、謗法を見聞して、呵責(かしゃく)もせずにそのままにしておけば、眼と耳の徳を破ることになるとおっしゃっているのです。
故に、章安大師は「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是彼が怨(あだ)なり」と述べられて、慈悲もなく、折伏も行ぜず、詐(いつわ)り親しむ者の重罪は消滅することが困難であるから、もし謗ずる者があれば、これを誡めて慈悲の折伏を行じ、利益を被(こうむ)らせてあげることが肝要であると仰せられているのであります。
(大白法九五三号 三月度広布唱題会の砌)