例えば、法華経(ほけきょう)が憎(にく)くて、法華経(ほけきょう)を足蹴(あしげ)にした人がいた。
その人が死んだら当然、法華経を足蹴にした罪により地獄に堕ちるのですけれども、獄卒(ごくそつ)がいくら杖(つえ)で突っついて地獄に堕とそうとしても、法華経を蹴(け)った足だけは地獄に堕(お)ちていかないのです。それはなぜか。これが、逆縁成仏(ぎゃくえんじょうぶつ)なのです。世間でも
「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」
と言いますように、この大聖人様の仏法の縁に触(ふ)れることが、とても大切なのです。だから、この法華経を足蹴(あしげ)にした人も、それが縁となって、足だけが地獄に堕(お)ちなかったのです。
我々の折伏も同じです。どんな人にでも、この御本尊様のすばらしさを説き、折伏すべきなのです。
その時に反対しようが何しようが、それが必ず縁となって、その人の成仏に結びつくのです。
今言った、逆縁成仏(ぎゃくえんじょうぶつ)ということが実際にあるのであります。(中略)ですから、折伏を躊躇(ちゅうちょ)してはだめなのです。心を込めて折伏をすれば、それが必ず縁になる。
その時に相手の方が反対してもいいのです。(中略)それでも、折伏するところ、それが必ず縁になるのです。
そこが非常(ひじょう)に大事なのです。
(信行要文八 第二期 『本因妙抄』御講義)
その人が死んだら当然、法華経を足蹴にした罪により地獄に堕ちるのですけれども、獄卒(ごくそつ)がいくら杖(つえ)で突っついて地獄に堕とそうとしても、法華経を蹴(け)った足だけは地獄に堕(お)ちていかないのです。それはなぜか。これが、逆縁成仏(ぎゃくえんじょうぶつ)なのです。世間でも
「縁(えん)なき衆生(しゅじょう)は度(ど)し難(がた)し」
と言いますように、この大聖人様の仏法の縁に触(ふ)れることが、とても大切なのです。だから、この法華経を足蹴(あしげ)にした人も、それが縁となって、足だけが地獄に堕(お)ちなかったのです。
我々の折伏も同じです。どんな人にでも、この御本尊様のすばらしさを説き、折伏すべきなのです。
その時に反対しようが何しようが、それが必ず縁となって、その人の成仏に結びつくのです。
今言った、逆縁成仏(ぎゃくえんじょうぶつ)ということが実際にあるのであります。(中略)ですから、折伏を躊躇(ちゅうちょ)してはだめなのです。心を込めて折伏をすれば、それが必ず縁になる。
その時に相手の方が反対してもいいのです。(中略)それでも、折伏するところ、それが必ず縁になるのです。
そこが非常(ひじょう)に大事なのです。
(信行要文八 第二期 『本因妙抄』御講義)