『兄弟抄』には、「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随ヘば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」(御書986)と仰せであります。
大御本尊に対する絶対的確信と強盛なる自行化他の信心、就中破邪顕正の折伏こそ邪義邪宗の謗法を打ち払い、あらゆる障魔を打ち砕く秘訣であります。
言い換えれば、講中全体が誓願達成の共通の認識を高め、不自惜身命の断固たる決意と異体同心の団結を以て折伏を行じていけば、如何なる障魔にも負けない足腰の強い講中を構築できるのであります。そのためには、講中にあって限られた人だけが折伏を行うのではなく、講中全員が立ち上がり強力に折伏を行えるように育成していくことであります。具体的に云えば、折伏したら、その折伏された人が折伏出来るように育てることであります。
抑も、育成とは単に育てるというだけではなく、「大きく育てて、立派にする」という意味があります。仏法の見地から云えば、「大きく育てて、立派にする」とは、広布達成に資する人材、即ち折伏の戦士を育てることであります。
「子を養いて教えざるは父の過ちなり、訓導して厳ならざるは師の惰りなり」という言葉もあります。子供をただ養うだけで、何も教えないのは父たる者の過ちであり、弟子を訓導するに当たって厳しさに欠けるのは、師たる者の怠惰であるという意味でありますが、このような事であってはなりません。折伏しても折伏が出来るように育てなければ、慈悲に欠け無責任の侮りを受けます。
所詮、折伏と育成は共に化他行であります。申すまでもなく自行とは勤行と唱題であり、化他行とは折伏と育成であります。従って、共に化他行である折伏と育成はどららが欠けても片寄った信心となり、これでは強い講中は育たず、大事な目標も達成出来ません。 要は、折伏したら、その人が折伏できるように育成することが強い講中構築の極意であります。
(平成24年 新年の辞)
大御本尊に対する絶対的確信と強盛なる自行化他の信心、就中破邪顕正の折伏こそ邪義邪宗の謗法を打ち払い、あらゆる障魔を打ち砕く秘訣であります。
言い換えれば、講中全体が誓願達成の共通の認識を高め、不自惜身命の断固たる決意と異体同心の団結を以て折伏を行じていけば、如何なる障魔にも負けない足腰の強い講中を構築できるのであります。そのためには、講中にあって限られた人だけが折伏を行うのではなく、講中全員が立ち上がり強力に折伏を行えるように育成していくことであります。具体的に云えば、折伏したら、その折伏された人が折伏出来るように育てることであります。
抑も、育成とは単に育てるというだけではなく、「大きく育てて、立派にする」という意味があります。仏法の見地から云えば、「大きく育てて、立派にする」とは、広布達成に資する人材、即ち折伏の戦士を育てることであります。
「子を養いて教えざるは父の過ちなり、訓導して厳ならざるは師の惰りなり」という言葉もあります。子供をただ養うだけで、何も教えないのは父たる者の過ちであり、弟子を訓導するに当たって厳しさに欠けるのは、師たる者の怠惰であるという意味でありますが、このような事であってはなりません。折伏しても折伏が出来るように育てなければ、慈悲に欠け無責任の侮りを受けます。
所詮、折伏と育成は共に化他行であります。申すまでもなく自行とは勤行と唱題であり、化他行とは折伏と育成であります。従って、共に化他行である折伏と育成はどららが欠けても片寄った信心となり、これでは強い講中は育たず、大事な目標も達成出来ません。 要は、折伏したら、その人が折伏できるように育成することが強い講中構築の極意であります。
(平成24年 新年の辞)