信心というのは、やはり行うことが大事です。頭でっかちに、いくら考えても、また口でいくら言っても、これはだめなのです。
我々は身口意(しんくい)の三業(さんごう)にわたって、しっかりと信心をしていかなければならないのであります。(中略)
折伏をしたら、その人が折伏できるように育成していかなければ、ということであります。
その責任が、だれにあるかというと、私達です。折伏をしっぱなしにしてはいけません。折伏しても放ったらかしして、勤行・唱題もしない、御講にも来ない、御登山にも来ない、座談会(ざだんかい)にも来ない、それでは信心をしているとは言えないのでしょう。折伏した人を我々の同志(どうし)に、法華講員として育てていく。
その責任は、僧侶を含め、既(すで)にこの信心をしている我々にあるのです。
(大白法九六六 御法主日如上人猊下御講義)
我々は身口意(しんくい)の三業(さんごう)にわたって、しっかりと信心をしていかなければならないのであります。(中略)
折伏をしたら、その人が折伏できるように育成していかなければ、ということであります。
その責任が、だれにあるかというと、私達です。折伏をしっぱなしにしてはいけません。折伏しても放ったらかしして、勤行・唱題もしない、御講にも来ない、御登山にも来ない、座談会(ざだんかい)にも来ない、それでは信心をしているとは言えないのでしょう。折伏した人を我々の同志(どうし)に、法華講員として育てていく。
その責任は、僧侶を含め、既(すで)にこの信心をしている我々にあるのです。
(大白法九六六 御法主日如上人猊下御講義)