申すまでもなく、折伏は御本仏宗祖日蓮大聖人より賜(たまわ)った最高の仏道修行であり、末法の一切衆生救済の最善の方途(ほうと)であります。
特に今、宗門は、来るべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向けて、力強く前進しておりますが、この広布の戦いのなかで最も肝心(かんじん)なことは、とかく言うのではなく、行動すること、すなわち講中(こうじゅう)のすべての人が心を一つにして、異体同心・一致団結して折伏を行じていくことであります。
中阿含経のなかに『毒矢の譬え』という有名な逸話(いつわ)があります。
この話は皆様方もよく知っている話でありますが、簡単に言いますと、
「ある弟子が釈尊に対して『この世は永久のものでしょうか、無常のものでしょうか。世界には果てがあるのでしょうか。仏様は死後も存在するのでしょうか』などの質問を投げ掛けました。釈尊はその質問に直接は答えず『毒矢に当たった者が、矢を抜く前に、この矢はどういう者が放った矢なのか。どんな名前の人なのか。背の高い人か低い人か。町の人か村の人か。矢の材質は何で出来ているのか。私を診察する医師の名はなんという名前か。これらのことがすべて判(わか)るまで矢を抜いてはならないと言うならば、その人の命はなくなってしまうでしょう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである』と仰せられた」
という話であります。
これは、私どもが今、問題としなくてはならないことを後回しにして、他の問題に目を向けていることを戒(いまし)めた譬(たと)えで、つまり今、何が大切なのかを知ることが大事であると仰せられているのであります。
(大白法九五七号 五月度広布唱題会の砌)
特に今、宗門は、来るべき平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築へ向けて、力強く前進しておりますが、この広布の戦いのなかで最も肝心(かんじん)なことは、とかく言うのではなく、行動すること、すなわち講中(こうじゅう)のすべての人が心を一つにして、異体同心・一致団結して折伏を行じていくことであります。
中阿含経のなかに『毒矢の譬え』という有名な逸話(いつわ)があります。
この話は皆様方もよく知っている話でありますが、簡単に言いますと、
「ある弟子が釈尊に対して『この世は永久のものでしょうか、無常のものでしょうか。世界には果てがあるのでしょうか。仏様は死後も存在するのでしょうか』などの質問を投げ掛けました。釈尊はその質問に直接は答えず『毒矢に当たった者が、矢を抜く前に、この矢はどういう者が放った矢なのか。どんな名前の人なのか。背の高い人か低い人か。町の人か村の人か。矢の材質は何で出来ているのか。私を診察する医師の名はなんという名前か。これらのことがすべて判(わか)るまで矢を抜いてはならないと言うならば、その人の命はなくなってしまうでしょう。必要なのは、まず毒矢を抜き、応急の手当てをすることである』と仰せられた」
という話であります。
これは、私どもが今、問題としなくてはならないことを後回しにして、他の問題に目を向けていることを戒(いまし)めた譬(たと)えで、つまり今、何が大切なのかを知ることが大事であると仰せられているのであります。
(大白法九五七号 五月度広布唱題会の砌)