人々の苦しみや悩み、不幸、こういったものはどこから出てくるかと言うと、結局は煩悩(ぼんのう)から生まれてくるわけで、この煩悩が悪業(あくごう)の因縁を作り、そして、その悪業の因縁によって人々が苦しむのであります。それがずっと永遠に続くのでありまして、つまり苦しみがまた煩悩を生み、煩悩が悪業の因縁を作る、そして悪業の因縁によって苦しむ、そしてまた煩悩を作る、これを輪廻三道(りんねさんどう)と言いますけれども、そこから抜け出すことができないのであります。
この三道を法身・般若・解脱(ほっしん・はんにゃ・げだつ)の三徳に転じていくのは、大聖人様の仏法以外にないのであります。
法身と申しますのは、これは読んで字のごとく法でありますから、不変そしてまた永遠であります。
つまり信心堅固に泰然(たいぜん)とした境界(きょうがい)に立つこと、それが法身ということになるかと思います。
般若(はんにゃ)というのは智慧(ちえ)でありますから、どのようなときでも、つまり苦しいときでも、困ったときでも、この妙法蓮華経の功徳によって、それこそ計り知れない智慧が涌いてくるのであります。
解脱(げだつ)というのは、これは言うならば煩悩の束縛(そくばく)から逃れることであります。
つまり解(げ)ついうのは解(と)くことであり、脱(だつ)は脱することであります。
つまり、妙法蓮華経を唱えることによって、この煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳に転じていくことができるのであります。
(大白法 平成十八年一月度 唱題行の砌)
この三道を法身・般若・解脱(ほっしん・はんにゃ・げだつ)の三徳に転じていくのは、大聖人様の仏法以外にないのであります。
法身と申しますのは、これは読んで字のごとく法でありますから、不変そしてまた永遠であります。
つまり信心堅固に泰然(たいぜん)とした境界(きょうがい)に立つこと、それが法身ということになるかと思います。
般若(はんにゃ)というのは智慧(ちえ)でありますから、どのようなときでも、つまり苦しいときでも、困ったときでも、この妙法蓮華経の功徳によって、それこそ計り知れない智慧が涌いてくるのであります。
解脱(げだつ)というのは、これは言うならば煩悩の束縛(そくばく)から逃れることであります。
つまり解(げ)ついうのは解(と)くことであり、脱(だつ)は脱することであります。
つまり、妙法蓮華経を唱えることによって、この煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳に転じていくことができるのであります。
(大白法 平成十八年一月度 唱題行の砌)