大聖人様は『総在一念抄』(そうざいいちねんしょう)に、
「問うて云はく、一文不通(いちもんふつう)の愚人(ぐにん)南無妙法蓮華経と唱へては何の益(やく)か有らんや。答ふ、文盲(もんもう)にして一字を覚悟せざる人も信(しん)を致して唱へたてまつれば、身口意(しんくい)の三業(さんごう)の中には先(ま)ず口業(くぎょう)の功徳を成就せり。若(も)し功徳成就すれば仏の種子(しゅし)むねの中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり」(御書 一一五㌻)
と仰せられています。
すなわち、たとえ経文や論釈(ろんしゃく)なども知らず、一つ文字も知らない愚か者であっても、信心堅固(しんじんけんご)に、
ひたすら南無妙法蓮華経と唱えれば、身口意(しんくい)の三業(さんごう)のうちには、まず口業(くごう)の功徳を成就することができるのであります。つまり、言葉による過(あやま)ちをなくし、功徳を成就することができると示されているのです。また、この口業受持(くごうじゅじ)の功徳を成就することができれば、仏種(ぶっしゅ)を胸のなかに収め、心に刻んで、必ず出離生死(しゅつりしょうじ)の人、すなわち三界六道(さんがいろくどう)の生死の迷いや苦しみを克服することができる人であると仰せられているのであります。
まさしく唱題の功徳は、かくの如(ごと)く広大であり、順縁(じゅんえん)も逆縁も、共に決定して成仏することができるのであります。
(大白法 唱題行(七月三十一日)の砌)
「問うて云はく、一文不通(いちもんふつう)の愚人(ぐにん)南無妙法蓮華経と唱へては何の益(やく)か有らんや。答ふ、文盲(もんもう)にして一字を覚悟せざる人も信(しん)を致して唱へたてまつれば、身口意(しんくい)の三業(さんごう)の中には先(ま)ず口業(くぎょう)の功徳を成就せり。若(も)し功徳成就すれば仏の種子(しゅし)むねの中に収めて必ず出離(しゅつり)の人と成るなり」(御書 一一五㌻)
と仰せられています。
すなわち、たとえ経文や論釈(ろんしゃく)なども知らず、一つ文字も知らない愚か者であっても、信心堅固(しんじんけんご)に、
ひたすら南無妙法蓮華経と唱えれば、身口意(しんくい)の三業(さんごう)のうちには、まず口業(くごう)の功徳を成就することができるのであります。つまり、言葉による過(あやま)ちをなくし、功徳を成就することができると示されているのです。また、この口業受持(くごうじゅじ)の功徳を成就することができれば、仏種(ぶっしゅ)を胸のなかに収め、心に刻んで、必ず出離生死(しゅつりしょうじ)の人、すなわち三界六道(さんがいろくどう)の生死の迷いや苦しみを克服することができる人であると仰せられているのであります。
まさしく唱題の功徳は、かくの如(ごと)く広大であり、順縁(じゅんえん)も逆縁も、共に決定して成仏することができるのであります。
(大白法 唱題行(七月三十一日)の砌)