「此の経の四の巻には『若(も)しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持(たも)ち説く者を一言にても毀(そし)る事あらば其(そ)の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり』と見へたり。
或(あるい)は「若実(にゃくじつ)若不実」とも説かれたり」と仰せであります。(中略)
「もし在家の身であれ、あるいは出家であっても、法華経を持ち、これを説く者に対して、ひとことでも謗ることがあれば、その罪は、釈尊を一劫という長い間、謗る罪よりも重い」と厳しく仰せられているのであります。(中略)
もし法華経を受持する人を見て、その人の間違いを見つけ出して世間に吹聴(ふいちょう)するようなことがあれば、それがたとえ実でもあれ、不実でもあれ、この人は現世に白癩の病を得るであろうと仰せられているのであります。
この「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」との仰せは非常に大事であります。
いかに過(あやま)ちがある人でも、人は皆、仏性を具えておりますから、その人の悪を挙げるのではなく、その人の内在する仏性を呼び起こす、つまり仏性が仏性としての用(はたら)きをするように仕向けていく、すなわち折伏し、妙法を下種して正しい信心に導いていくことが大事なのであります。
(大日蓮 平成三十年 十一月号)
或(あるい)は「若実(にゃくじつ)若不実」とも説かれたり」と仰せであります。(中略)
「もし在家の身であれ、あるいは出家であっても、法華経を持ち、これを説く者に対して、ひとことでも謗ることがあれば、その罪は、釈尊を一劫という長い間、謗る罪よりも重い」と厳しく仰せられているのであります。(中略)
もし法華経を受持する人を見て、その人の間違いを見つけ出して世間に吹聴(ふいちょう)するようなことがあれば、それがたとえ実でもあれ、不実でもあれ、この人は現世に白癩の病を得るであろうと仰せられているのであります。
この「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ」との仰せは非常に大事であります。
いかに過(あやま)ちがある人でも、人は皆、仏性を具えておりますから、その人の悪を挙げるのではなく、その人の内在する仏性を呼び起こす、つまり仏性が仏性としての用(はたら)きをするように仕向けていく、すなわち折伏し、妙法を下種して正しい信心に導いていくことが大事なのであります。
(大日蓮 平成三十年 十一月号)