大聖人の教えは広宣流布です。広宣流布は折伏ですから、折伏を抜き取った信心というのは、我々には存在しないのです。折伏を抜き取った信心があるとすれば、それはもはや小乗仏教です。ですからお題目をしっかり唱えて、そしてその功徳と歓喜をもって折伏に打って出るということが大事なのであり、唱題が唱題だけで終わってしまってはだめなのです。
日顕上人猊下のお歌のなかに、
「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」(大日蓮 平成2年3月号72ページ)
というものがあります。このお歌は知っているでしょう。このお歌をよく拝して御覧なさい。まさにかぎりなく境界を開く題目を、一生懸命に唱える。そして常に唱えつつ、その同時進行で、広布を目指すとは折伏するということです。
つまり折伏しなくてはだめだと言っておられるのです。だから、これが唱題だけで終わってしまっては意味がないのです。日顕上人は、そのように御指南なさっているのです。近年、宗門において唱題行を御題唱あそばされたのは日顕上人でありますけれども、日顕上人はそうやって自行化他の信心を我々に教えてくださっているのですから、題目をいくら唱えても、それだけで得意になっていたのでもだめなのですよ。
もちろん題目を唱えることは立派なことです。それがいけないというのではないのです。勘違いをなさらないでください。しかし題目を唱えたならば、まさにこの御指南のとおり、題目を唱えつつ同時進行で折伏をする。そうやって広布を目指していかなければならない。こういったことがしっかり身についてくると、ありとあらゆる悩みがすべて、どんどん解決していくのです。
それができない場合は、因果の理法の因のところで、どこかに一つ自分自身が考え違いを起こしている、あるいは思い違いをしているのです。あるいは、何回も言うけれども、自分のわずかな人生で得た信心経験で「これが本当だ、これがすべてだ」などと考えていると、増上慢になってだめになってしまう。それではいけないのです。きちんと正しく御指南を拝し奉っていけば、今、我々が何をすべきかがはっきりと判るのです。
先程のお歌一つを拝しても、「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」、お題目を唱えつつ広布を目指していきなさい、自行化他にわたって題目を唱えていきなさい。つまり、唱題をしっかりして、それを元に折伏をしていけとおっしゃているのです。こういったことの実践が因になって、善い結果を招き寄せられるのです。このことを我々はよく知らなければならないと思います。
(平成19年 大白法 7月16日号 夏期講習会 御講義)
日顕上人猊下のお歌のなかに、
「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」(大日蓮 平成2年3月号72ページ)
というものがあります。このお歌は知っているでしょう。このお歌をよく拝して御覧なさい。まさにかぎりなく境界を開く題目を、一生懸命に唱える。そして常に唱えつつ、その同時進行で、広布を目指すとは折伏するということです。
つまり折伏しなくてはだめだと言っておられるのです。だから、これが唱題だけで終わってしまっては意味がないのです。日顕上人は、そのように御指南なさっているのです。近年、宗門において唱題行を御題唱あそばされたのは日顕上人でありますけれども、日顕上人はそうやって自行化他の信心を我々に教えてくださっているのですから、題目をいくら唱えても、それだけで得意になっていたのでもだめなのですよ。
もちろん題目を唱えることは立派なことです。それがいけないというのではないのです。勘違いをなさらないでください。しかし題目を唱えたならば、まさにこの御指南のとおり、題目を唱えつつ同時進行で折伏をする。そうやって広布を目指していかなければならない。こういったことがしっかり身についてくると、ありとあらゆる悩みがすべて、どんどん解決していくのです。
それができない場合は、因果の理法の因のところで、どこかに一つ自分自身が考え違いを起こしている、あるいは思い違いをしているのです。あるいは、何回も言うけれども、自分のわずかな人生で得た信心経験で「これが本当だ、これがすべてだ」などと考えていると、増上慢になってだめになってしまう。それではいけないのです。きちんと正しく御指南を拝し奉っていけば、今、我々が何をすべきかがはっきりと判るのです。
先程のお歌一つを拝しても、「かぎりなく、境涯ひらく 題目を 常にとなえつ 広布目指さん」、お題目を唱えつつ広布を目指していきなさい、自行化他にわたって題目を唱えていきなさい。つまり、唱題をしっかりして、それを元に折伏をしていけとおっしゃているのです。こういったことの実践が因になって、善い結果を招き寄せられるのです。このことを我々はよく知らなければならないと思います。
(平成19年 大白法 7月16日号 夏期講習会 御講義)