「此の経の題目は読む事なくして大なる善根にて候」と仰せでありますが、たとえお題目の意味も解らずに、ただお題目を唱えただけでも、大きな善根となると仰せであります。
「善根」とは、諸々(もろもろ)の善を生み出す根本となるものを言い、善根を積むことによって善い果報を受けることができるのであります。例えば、幼い子供がお題目の意味が解らなくとも、一生懸命、お題目を唱えれば、おのずと大きな功徳を受けることができるのであります。
したがって、たとえ悪人でも、女人でも、畜生でも、地獄の衆生であってもひとたび南無妙法蓮華経とお題目を唱え奉(たてまつ)れば、その身そのまま、成仏することができると仰せられているのであります。
それはあたかも、水の底に沈んでいる石でも、火打ち石の原理で、それを打ち合えば火が起きるように、また、たとえ百千万年の間、闇に閉ざされていた場所でも、ひとたび灯火(ともしび)を入れれば明るくなるようなものである。
世間の仮初(かりそ)めのことでさえも、なお、このような不思議があり、ましては、仏法の妙不可思議なる御法の功徳力においては、なおさらである。
(大日蓮 第六回法華講中等部・高等部大会の砌)
「善根」とは、諸々(もろもろ)の善を生み出す根本となるものを言い、善根を積むことによって善い果報を受けることができるのであります。例えば、幼い子供がお題目の意味が解らなくとも、一生懸命、お題目を唱えれば、おのずと大きな功徳を受けることができるのであります。
したがって、たとえ悪人でも、女人でも、畜生でも、地獄の衆生であってもひとたび南無妙法蓮華経とお題目を唱え奉(たてまつ)れば、その身そのまま、成仏することができると仰せられているのであります。
それはあたかも、水の底に沈んでいる石でも、火打ち石の原理で、それを打ち合えば火が起きるように、また、たとえ百千万年の間、闇に閉ざされていた場所でも、ひとたび灯火(ともしび)を入れれば明るくなるようなものである。
世間の仮初(かりそ)めのことでさえも、なお、このような不思議があり、ましては、仏法の妙不可思議なる御法の功徳力においては、なおさらである。
(大日蓮 第六回法華講中等部・高等部大会の砌)