折伏(しゃくぶく)というと、何か構(かま)えてしまって、鎧兜(よろいかぶと)を着(つ)けたようになってしまう人もいるのですが、そうではないのです。折伏は、その人を救(すく)うのだから、慈悲(じひ)の心がこちら側(がわ)になければだめなのです。もちろん、邪義邪宗(じゃぎじゃしゅう)に対しては厳(きび)しく破折(はしゃく)しますが、その根本(こんぽん)は慈悲なのですから、これを忘れてはならないのです。
だから、だれでも折伏はできるのです。ただ、しないだけです。折伏をしなければ、いくらお題目を唱えていても、自行化他(じぎょうけた)の信心の片一方(かたいっぽう)が欠(か)けてしまい、自行化他の信心がそろわないことになります。だから、大聖人様は
「一文一句(いちもんいっく)なりともかたらせ給ふべし」
とおっしゃっているのです。これを実践(じっせん)して初めて、大きな功徳(くどく)を招来(しょうらい)することができるのであります。
(大日蓮 十月号 夏期講習会の砌)
だから、だれでも折伏はできるのです。ただ、しないだけです。折伏をしなければ、いくらお題目を唱えていても、自行化他(じぎょうけた)の信心の片一方(かたいっぽう)が欠(か)けてしまい、自行化他の信心がそろわないことになります。だから、大聖人様は
「一文一句(いちもんいっく)なりともかたらせ給ふべし」
とおっしゃっているのです。これを実践(じっせん)して初めて、大きな功徳(くどく)を招来(しょうらい)することができるのであります。
(大日蓮 十月号 夏期講習会の砌)