『法華初心成仏抄』には、
「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是(これ)を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強(し)ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり。」
(御書一三一六㌻)
と仰せであります。
「毒鼓の縁」とは、皆様もよく御存知のように、涅槃経(ねはんぎょう)に説かれる話で、非常に強力な毒を太鼓の表面に塗って、その太鼓を打つと、毒のために太鼓の音を聞いた人達は皆、死んでしまうと言われています。これは逆縁とも言い、謗法の者に法華経を説き聞かせることは法華経に縁することになり、成仏の因となるという話であります。
(大白法 九五七号 五月度広布推進会の砌)
「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是(これ)を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強(し)ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。譬へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起(た)つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失(とが)に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説ききかすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓(どっく)の縁となって仏になるべきなり。」
(御書一三一六㌻)
と仰せであります。
「毒鼓の縁」とは、皆様もよく御存知のように、涅槃経(ねはんぎょう)に説かれる話で、非常に強力な毒を太鼓の表面に塗って、その太鼓を打つと、毒のために太鼓の音を聞いた人達は皆、死んでしまうと言われています。これは逆縁とも言い、謗法の者に法華経を説き聞かせることは法華経に縁することになり、成仏の因となるという話であります。
(大白法 九五七号 五月度広布推進会の砌)