『聖愚問答抄(しょうぐもんどうしょう)』には
「今の世は濁世(じょくせ)なり、人の情(じょう)もひがみゆがんで権教謗法(ごんきょうほうぼう)のみ多ければ正法弘まりがたし。
此の時は読踊(どくじゅ)·書写(しょしゃ)の修行も観念(かんねん)·工夫(くふう)·修練(しゅうれん)も無用(むよう)なり。
只折伏を行じてカあらば威勢(いせい)を以(も)って謗法(ほうぼう)をくだき、又法門を以(もっ)ても邪義(じゃぎ)を責めよとなり。
取捨其(しゅしゃそ)の旨(むね)を得(え)て一向(いっこう)に執する事なかれと書(か)けり。
今の世を見(み)るに正法一純(しょうぼういちじゅん)に弘(ひろ)まる国か、 邪法(じゃほう)の興盛(こうじょう)する国か勘(かんが)ふべし」
(御書四〇三直)
と仰せられ、濁劫悪世(じょっこうあくせ)の姿そのままに、五濁乱漫(ごじょくらんまん)として権教謗法(ごんきょうほうぼう)のみ多く、ために人心(じんしん)が乱れ、世情騒然(せじょうそうぜん)とした状況を呈(てい)している今時(こんじ)末法においては、像法過時(ぞうほうかじ)の読舗(どくじゅ)·書写(しょしゃ)の修行も、観念(かんねん)·工夫(くふう)·修練(しゅうれん)も無用にして、ただ破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏をもって謗法(ほうぼう)を砕(くだ)き、法門をもっても邪義(じゃぎ)を破折(はしゃく)することこそ肝要(かんよう)であると仰せられているのであります。
(大白法 第一0五九号 九月広布唱題会の砌)
「今の世は濁世(じょくせ)なり、人の情(じょう)もひがみゆがんで権教謗法(ごんきょうほうぼう)のみ多ければ正法弘まりがたし。
此の時は読踊(どくじゅ)·書写(しょしゃ)の修行も観念(かんねん)·工夫(くふう)·修練(しゅうれん)も無用(むよう)なり。
只折伏を行じてカあらば威勢(いせい)を以(も)って謗法(ほうぼう)をくだき、又法門を以(もっ)ても邪義(じゃぎ)を責めよとなり。
取捨其(しゅしゃそ)の旨(むね)を得(え)て一向(いっこう)に執する事なかれと書(か)けり。
今の世を見(み)るに正法一純(しょうぼういちじゅん)に弘(ひろ)まる国か、 邪法(じゃほう)の興盛(こうじょう)する国か勘(かんが)ふべし」
(御書四〇三直)
と仰せられ、濁劫悪世(じょっこうあくせ)の姿そのままに、五濁乱漫(ごじょくらんまん)として権教謗法(ごんきょうほうぼう)のみ多く、ために人心(じんしん)が乱れ、世情騒然(せじょうそうぜん)とした状況を呈(てい)している今時(こんじ)末法においては、像法過時(ぞうほうかじ)の読舗(どくじゅ)·書写(しょしゃ)の修行も、観念(かんねん)·工夫(くふう)·修練(しゅうれん)も無用にして、ただ破邪顕正(はじゃけんしょう)の折伏をもって謗法(ほうぼう)を砕(くだ)き、法門をもっても邪義(じゃぎ)を破折(はしゃく)することこそ肝要(かんよう)であると仰せられているのであります。
(大白法 第一0五九号 九月広布唱題会の砌)