目標達成のためには、私ども一人ひとりが身軽法重(しんきょうほうじゅう)・死身弘法(ししんぐほう)の御聖訓を奉戴(ほうたい)し、御本仏宗祖日蓮大聖人の弟子檀那としての自覚と断固たる決意をもって、真剣に唱題に励み、その功徳と歓喜(かんき)をもって、敢然(かんぜん)として折伏を行じていくことが肝要であります。
大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだに
もせめざれば得道ありがたし。たとへば朝(ちょう)につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵(かたき)をしりながら奏(そう)しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還(かえ)ってとがに行なはれんが如し、
当世の人々は謗法の者としろしめすべし」(御書 三二二頁)
と仰せであります。
すなわち『たとえ信心が深いと言われる者でも、法華経の敵(かたき)も責めず、すなわち謗法を破折もせず、どのような大きな善行(ぜんぎょう)を積んだ者であったとしても、あるいは法華経を千万部も書写し、一念三千の観心の法門を得たと言われる人でも、法華経の敵を折伏し、邪義邪宗の謗法から救っていかなければ、それは本当の大善ではなく、自分自身の得道はありえない」と厳しく仰せられているのであります。
(大白法 一〇〇一号 三月度広布唱題会の砌)
大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に、
「信心ふかき者も法華経のかたきをばせめず。いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだに
もせめざれば得道ありがたし。たとへば朝(ちょう)につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵(かたき)をしりながら奏(そう)しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還(かえ)ってとがに行なはれんが如し、
当世の人々は謗法の者としろしめすべし」(御書 三二二頁)
と仰せであります。
すなわち『たとえ信心が深いと言われる者でも、法華経の敵(かたき)も責めず、すなわち謗法を破折もせず、どのような大きな善行(ぜんぎょう)を積んだ者であったとしても、あるいは法華経を千万部も書写し、一念三千の観心の法門を得たと言われる人でも、法華経の敵を折伏し、邪義邪宗の謗法から救っていかなければ、それは本当の大善ではなく、自分自身の得道はありえない」と厳しく仰せられているのであります。
(大白法 一〇〇一号 三月度広布唱題会の砌)