混沌(こんとん)とした末法今日(まっぽうこんにち)の世の中を救えるのは、唯一(ゆいいつ)、末法(まっぽう)の御本仏宗祖日蓮大聖人(ごほんぶつしゅうそにちれんだいしょうにん)の仏法以外(ぶっぽういがい)にないことは、本宗僧俗(ほんしゅうそうぞく)であれば、だれもが知っていることであります。
しかしながら、知っているだけでは理(り)の信心であって、自行化他(じぎょうけた)の信心からいえば、片寄(かたよ)った信心となり、大聖人様(だいしょうにんさま)の御意(ぎょい)にかなう信心とは言えません。
つまり、信心とは実践(じっせん)であり、観念(かんねん)だけでは成仏(じょうぶつ)いたしません。特に、自行化他(じぎょうけた)の信心において折伏(しゃくぶく)を忘れた信心は、大聖人様の御正意(ごしょうい)にかなう信心とは言えません。
されば、『百六箇抄(ひゃくろっかしょう)』には
「法自(ほうおの)づから弘まらず、人(ひと)、法(ほう)を弘(ひろ)むるが故(ゆえ)に人法(にんぽう)ともに尊(とうと)し」(御書一六八七頁)
と仰(おお)せであります。
私どもは、謗法(ほうぼう)の害毒(がいどく)によって苦悩に喘(あえ)ぐ多くの人々に謗法(ほうぼう)の恐(おそ)ろしさを教え、正しい大聖人様の仏法によらなければ真の幸せを築(きず)くことができないことを、一人でも多くの人に伝えていかなければならない大事(だいじ)な使命(しめい)があることを忘れてはなりません。
(大白法 第一〇七五号 広布唱題会の砌)
しかしながら、知っているだけでは理(り)の信心であって、自行化他(じぎょうけた)の信心からいえば、片寄(かたよ)った信心となり、大聖人様(だいしょうにんさま)の御意(ぎょい)にかなう信心とは言えません。
つまり、信心とは実践(じっせん)であり、観念(かんねん)だけでは成仏(じょうぶつ)いたしません。特に、自行化他(じぎょうけた)の信心において折伏(しゃくぶく)を忘れた信心は、大聖人様の御正意(ごしょうい)にかなう信心とは言えません。
されば、『百六箇抄(ひゃくろっかしょう)』には
「法自(ほうおの)づから弘まらず、人(ひと)、法(ほう)を弘(ひろ)むるが故(ゆえ)に人法(にんぽう)ともに尊(とうと)し」(御書一六八七頁)
と仰(おお)せであります。
私どもは、謗法(ほうぼう)の害毒(がいどく)によって苦悩に喘(あえ)ぐ多くの人々に謗法(ほうぼう)の恐(おそ)ろしさを教え、正しい大聖人様の仏法によらなければ真の幸せを築(きず)くことができないことを、一人でも多くの人に伝えていかなければならない大事(だいじ)な使命(しめい)があることを忘れてはなりません。
(大白法 第一〇七五号 広布唱題会の砌)