一代諸経のほうからだんだんと中心のほうへ入っていこうとしても、それで本当のところが解るような頭のいい人はいませんから、私達はまず信心をもって、大聖人様は末法の御本仏ということをしっかりと頭に入れ、その功徳を説いていく、この御本尊のすばらしさを一人でも多くの人に説いていくことが大切です。
よく「自折 自他」(じしゃくじた)と言いますように、他の人を折伏することは、また自分自身を折伏していることになるのです。
ですから、これは非常に大事な修行なのです。信心から折伏を取ってしまったら、我々の一生成仏の修行にはなりません。
仏道修行というのは、まさしく折伏なのです。
折伏をするのは、大聖人様の御遺命である一天広布を目指す、その仏道修行ですから、その大聖人の御遺命をないがしろにしてしまっては、いくら信心をしても、全く意味のないことになってしまいます。
やはり、大聖人様の御遺命である広宣流布を目指した信心でなければ、本当の信心とは言えないのです。
広宣流布を目指す信心とは何かと言えば、我々にとっては折伏でしょう。だから、
「自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(御書 一五九五頁)
とありますように、自行と化他を努めていくところに、我々の真の即身成仏があるということをしっかりと認識し、これからも頑張っていただきたいと思います。
(大白法九四二号 第十三回法華講夏期講習会)
よく「自折 自他」(じしゃくじた)と言いますように、他の人を折伏することは、また自分自身を折伏していることになるのです。
ですから、これは非常に大事な修行なのです。信心から折伏を取ってしまったら、我々の一生成仏の修行にはなりません。
仏道修行というのは、まさしく折伏なのです。
折伏をするのは、大聖人様の御遺命である一天広布を目指す、その仏道修行ですから、その大聖人の御遺命をないがしろにしてしまっては、いくら信心をしても、全く意味のないことになってしまいます。
やはり、大聖人様の御遺命である広宣流布を目指した信心でなければ、本当の信心とは言えないのです。
広宣流布を目指す信心とは何かと言えば、我々にとっては折伏でしょう。だから、
「自行化他に亘(わた)りて南無妙法蓮華経なり」(御書 一五九五頁)
とありますように、自行と化他を努めていくところに、我々の真の即身成仏があるということをしっかりと認識し、これからも頑張っていただきたいと思います。
(大白法九四二号 第十三回法華講夏期講習会)