『中庸(ちゅうよう)』に、
「人一(ひと)たびにして之(これ)を能(よ)くすれば、己(おのれ)は之を百たびし、人十たびにして之を能くすれば、己れ千たびす」
(漢諸国字解全書一四 五一七㌻)
とあります。
他人が一度で能くするならば、自分はこれを百度する、他人が十度(じゅうたび)して成し遂げるならば、自分は千度(せんたび)繰り返してそれをする、ということでありますが、何事においてもこのようにすれば、例え愚鈍(ぐどん)な者でも、また、どんな柔弱(じゅうじゃく)な者でも、大事を成し遂げることが出来ると言っているのであります。
今、私達の信心において、特に折伏においては、この言葉通り、人が一たびするところを十たびしているであろうか、人が百たびするところを千たびしているであろうか。よくよく自照(じしょう)すべきではないかと思います。
(一月度新年の辞)
「人一(ひと)たびにして之(これ)を能(よ)くすれば、己(おのれ)は之を百たびし、人十たびにして之を能くすれば、己れ千たびす」
(漢諸国字解全書一四 五一七㌻)
とあります。
他人が一度で能くするならば、自分はこれを百度する、他人が十度(じゅうたび)して成し遂げるならば、自分は千度(せんたび)繰り返してそれをする、ということでありますが、何事においてもこのようにすれば、例え愚鈍(ぐどん)な者でも、また、どんな柔弱(じゅうじゃく)な者でも、大事を成し遂げることが出来ると言っているのであります。
今、私達の信心において、特に折伏においては、この言葉通り、人が一たびするところを十たびしているであろうか、人が百たびするところを千たびしているであろうか。よくよく自照(じしょう)すべきではないかと思います。
(一月度新年の辞)