この「三道(さんどう)」の、初めの「煩悩(ぼんのう)」とは、無明(むみょう)、貪欲(どんよく)、瞋恚(しんに)などを指(さ)します。
この煩悩(ぼんのう)が因(いん)となって、様々(さまざま)な善悪(ぜんあく)の「業(ごう)」を作り、さらにその業が因となって「苦」、様々な苦しみを受けるのです。しかも、ほとんどの衆生は、この苦から抜け出ることなく、また元の煩悩に戻ってしまい、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三つをグルグル繰り返すばかりで、ここから抜け出ることができないのです。これを「三輪(さんりん)」と言います。
この苦しみの境界(きょうがい)を打ち破っていくのが法華経であります。これは、どのように打ち破っていくかというと、グルグル回っている煩悩・業・苦の三つの苦しみを、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳に転ずるのです。
お題目の力は、煩悩・業・苦の苦しみから法身・般若・解脱の三徳に転ずる、広大無辺(こうだいむへん)なる功徳力(くどくりき)を具(そな)えているのであります。
ただしこれも、我々の「信」がなければできません。理屈の上では、仏様はそれだけのお力を持っていらっしゃるけれども、それを我が身に得ていくためには、我々に信心がなければならないのです。
(平成二十八年 夏期講習会の砌)
この煩悩(ぼんのう)が因(いん)となって、様々(さまざま)な善悪(ぜんあく)の「業(ごう)」を作り、さらにその業が因となって「苦」、様々な苦しみを受けるのです。しかも、ほとんどの衆生は、この苦から抜け出ることなく、また元の煩悩に戻ってしまい、煩悩(ぼんのう)・業(ごう)・苦(く)の三つをグルグル繰り返すばかりで、ここから抜け出ることができないのです。これを「三輪(さんりん)」と言います。
この苦しみの境界(きょうがい)を打ち破っていくのが法華経であります。これは、どのように打ち破っていくかというと、グルグル回っている煩悩・業・苦の三つの苦しみを、法身(ほっしん)・般若(はんにゃ)・解脱(げだつ)の三徳に転ずるのです。
お題目の力は、煩悩・業・苦の苦しみから法身・般若・解脱の三徳に転ずる、広大無辺(こうだいむへん)なる功徳力(くどくりき)を具(そな)えているのであります。
ただしこれも、我々の「信」がなければできません。理屈の上では、仏様はそれだけのお力を持っていらっしゃるけれども、それを我が身に得ていくためには、我々に信心がなければならないのです。
(平成二十八年 夏期講習会の砌)