信心とは理屈や理論ではなく、実践行であります。私どもの成仏も、信心という実践、体験、行動を通して、初めて我がものとなるのであり、机上(きじょう)の空論では我々は成仏しないのであります。
されば『土篭(つちろう)御書』には、
「法華経を余人(よにん)のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心(しきしん)二法共にあそばされたるこそ貴(たっと)く候へ」(御書 四八三頁)
と仰せであります。
したがって、この御金言を心では解(わか)っていても、実際に自(みずか)ら実践し、体験しなければ全く意味がありません。
広大無辺(こうだいむへん)なる御本尊の功徳も、我がものとはならないのであります。まさしく、折伏もまた同様であります。(中略)
謗法の害毒によって不幸に喘(あえ)ぐ多くの人々を救い、世の中を救い、国を救い、世界を救っていくのが、地涌(じゆ)の菩薩の眷属(けんぞく)たる私どもの大事な責務であると知り、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の誓願を達成すべく、身軽法重(しんきょうほうじゅう)・死身弘法(ししんぐほう)の御聖訓のままに、折伏に打って出ることが最も肝要であります。それが今、私ども本宗僧俗に与えられた尊い使命であることを知らなけれあなりません。
(大白法 一〇一三号 広布唱題会の砌)
されば『土篭(つちろう)御書』には、
「法華経を余人(よにん)のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心(しきしん)二法共にあそばされたるこそ貴(たっと)く候へ」(御書 四八三頁)
と仰せであります。
したがって、この御金言を心では解(わか)っていても、実際に自(みずか)ら実践し、体験しなければ全く意味がありません。
広大無辺(こうだいむへん)なる御本尊の功徳も、我がものとはならないのであります。まさしく、折伏もまた同様であります。(中略)
謗法の害毒によって不幸に喘(あえ)ぐ多くの人々を救い、世の中を救い、国を救い、世界を救っていくのが、地涌(じゆ)の菩薩の眷属(けんぞく)たる私どもの大事な責務であると知り、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築の誓願を達成すべく、身軽法重(しんきょうほうじゅう)・死身弘法(ししんぐほう)の御聖訓のままに、折伏に打って出ることが最も肝要であります。それが今、私ども本宗僧俗に与えられた尊い使命であることを知らなけれあなりません。
(大白法 一〇一三号 広布唱題会の砌)