誓願の達成は、我らに与えられた尊い使命であると同時に、御本尊様に誓った約束でありますから、我らはなんとしても誓願は達成しなければなりません。
そのためには、まず我々一人ひとりが誓願達成への断固たる決意と勇猛果敢なる実践をもって、折伏に励んでいくことが肝要であります。
大聖人様は『妙法比丘尼御返事』に、
「仏法の中には仏いましめて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(御書 一二六二頁)
と仰せであります。
謗法の破折なくして真の成仏はなく、謗法を見ておいて、そのままにしておくことは「いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」と厳しく御制誠あそばされていることを、よくよく銘記しなければなりません。
もちろん、私達は強盛に折伏を行じていけば、様々な難が競い起こることは必定であります。しかし、それは大聖人様の仏法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きもしませんし、騒ぎもしません。
私どもが正しい信心をしているからこそ、様々な魔が蠢動し、難が襲ってくるのであります。
されば『兄弟抄』には、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく
『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」
(同九八六)
と仰せられているのであります。
私どもは「魔競はずば正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる大難が競い起きようが、それを奇貨とし、決然として障魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を遂げることができるのであります。
(大日蓮 平成二十八年十月号 九月度広布唱題会の砌)
そのためには、まず我々一人ひとりが誓願達成への断固たる決意と勇猛果敢なる実践をもって、折伏に励んでいくことが肝要であります。
大聖人様は『妙法比丘尼御返事』に、
「仏法の中には仏いましめて云はく、法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(御書 一二六二頁)
と仰せであります。
謗法の破折なくして真の成仏はなく、謗法を見ておいて、そのままにしておくことは「いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」と厳しく御制誠あそばされていることを、よくよく銘記しなければなりません。
もちろん、私達は強盛に折伏を行じていけば、様々な難が競い起こることは必定であります。しかし、それは大聖人様の仏法が正しいからであり、間違った教えでは、魔も驚きもしませんし、騒ぎもしません。
私どもが正しい信心をしているからこそ、様々な魔が蠢動し、難が襲ってくるのであります。
されば『兄弟抄』には、
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく
『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」
(同九八六)
と仰せられているのであります。
私どもは「魔競はずば正法と知るべからず」との御金言をしっかりと心肝に染め、いかなる大難が競い起きようが、それを奇貨とし、決然として障魔を打ち払い、折伏を行じていく時、必ず転迷開悟の大功徳を享受し、即身成仏の本懐を遂げることができるのであります。
(大日蓮 平成二十八年十月号 九月度広布唱題会の砌)