「伝教大師云(でんぎょうだいしい)はく、『此の法華経(ほけきょう)は最(もっと)も為(こ)れ難信難解(なんしんなんげ)なり、随自意(ずいじい)の故(ゆえ)に』等云云(うんぬん)」
(御書六四七頁)
と、法華経(ほけきょう)という教えは随自意(ずいじい)の教えであるから難信難解(なんしんなんげ)であることをお示(しめ)しであります。
仏様の説法(せっぽう)には、随他意(ずいたい)と随自意(ずいじい)とがあるのです。随他意(ずいたい)というのは他の機根(きこん)に随(したが)って説く教えですから、その人その人の機根(きこん)に応(おう)じて、やさしく説いたり、色々(いろいろ)に説くわけです。しかし随自意(ずいじい)は、そうではないのです。随自意(ずいじい)というのは、仏様が自(みずか)らの悟(さと)りをそのまま説き示すことであり、また、その真実の教えそのものを随自意(ずいじい)の教えと言うのです。したがって、法華経は随自意の教えであり、他の機根(きこん)に随(したが)った教えとは違(ちが)うのであります。
(大日連 令和二年九月号 得成寺移転新築落慶法要の砌)
(御書六四七頁)
と、法華経(ほけきょう)という教えは随自意(ずいじい)の教えであるから難信難解(なんしんなんげ)であることをお示(しめ)しであります。
仏様の説法(せっぽう)には、随他意(ずいたい)と随自意(ずいじい)とがあるのです。随他意(ずいたい)というのは他の機根(きこん)に随(したが)って説く教えですから、その人その人の機根(きこん)に応(おう)じて、やさしく説いたり、色々(いろいろ)に説くわけです。しかし随自意(ずいじい)は、そうではないのです。随自意(ずいじい)というのは、仏様が自(みずか)らの悟(さと)りをそのまま説き示すことであり、また、その真実の教えそのものを随自意(ずいじい)の教えと言うのです。したがって、法華経は随自意の教えであり、他の機根(きこん)に随(したが)った教えとは違(ちが)うのであります。
(大日連 令和二年九月号 得成寺移転新築落慶法要の砌)