大聖人様は『十法界明因果抄(じゅっぽうかいみょういんがしょう)』に、
「慳貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依って餓鬼道に堕(だ)することは世人(せじん)知り易(やす)し。慳貪等無き諸(もろもろ)の善人も謗法に依り亦(また)謗法の人に親近(しんごん)し自然(じねん)に其(そ)の義を信ずるに依って餓鬼道の堕することは、智者に非(あら)ざれば之(これ)を知らず。能(よ)く能く恐るべきか」(御書 二〇八頁)
と仰せられています。
この御文は、謗法について、いかなる善人であっても謗法があれば、餓鬼道に堕(お)ちると厳しく警鐘(けいしょう)を鳴らされているのであります。(中略)
されば、宗門では古来、邪宗の神社・仏閣の前でわらじの紐(ひも)が解(ほど)けても、そこでは鼻緒(はなお)を結んではならないと言われています。それは心ならずも、他宗の神社・仏閣(ぶっかく)の前で頭を下げることになるからであります。
たとえ信心をしていても、謗法があれば、せっかく積んだ功徳も、たちまちに消(き)え失(う)せるばかりか、大きな罪障を積むことになるのでありますから、私どもは謗法厳誡の宗是(しゅうぜ)を固く守り、純真、潔白な信心に住(じゅう)するよう、よくよく気をつけていかなければなりません。
(大白法 第九九九号 唱題行(一月三十一日)の砌)
「慳貪(けんどん)・偸盗(ちゅうとう)等の罪に依って餓鬼道に堕(だ)することは世人(せじん)知り易(やす)し。慳貪等無き諸(もろもろ)の善人も謗法に依り亦(また)謗法の人に親近(しんごん)し自然(じねん)に其(そ)の義を信ずるに依って餓鬼道の堕することは、智者に非(あら)ざれば之(これ)を知らず。能(よ)く能く恐るべきか」(御書 二〇八頁)
と仰せられています。
この御文は、謗法について、いかなる善人であっても謗法があれば、餓鬼道に堕(お)ちると厳しく警鐘(けいしょう)を鳴らされているのであります。(中略)
されば、宗門では古来、邪宗の神社・仏閣の前でわらじの紐(ひも)が解(ほど)けても、そこでは鼻緒(はなお)を結んではならないと言われています。それは心ならずも、他宗の神社・仏閣(ぶっかく)の前で頭を下げることになるからであります。
たとえ信心をしていても、謗法があれば、せっかく積んだ功徳も、たちまちに消(き)え失(う)せるばかりか、大きな罪障を積むことになるのでありますから、私どもは謗法厳誡の宗是(しゅうぜ)を固く守り、純真、潔白な信心に住(じゅう)するよう、よくよく気をつけていかなければなりません。
(大白法 第九九九号 唱題行(一月三十一日)の砌)