平成二十八年「折伏推進の年」
支部総登山・添書登山
布教講演
(平成28年 3月6日)
皆様こんにちは、本修寺住職の園田司道でございます。
皆様には、はるばる総本山へ登山参詣され、たいへん御苦労様でございます。
本日は、「我、八十万人体勢構築の主体者とならん」と題してお話し申し上げます。
さて現在、宗門は平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築に向かって、異体同心・僧俗一致して前進しております。
平成二十六年六月には、慶祝記念局が設置され、宗祖日蓮大聖人の御報恩に供え奉るために、五つの
記念事業が実施されることになっており、すべての事業完遂に向け、僧俗が一体となり、御法主日如上人猊下のもとに進んでおります。
その五つの記念事業のなかでも、特に法華講員八十万人体勢構築の御命題達成こそ、すべての記念事業が成就される前提条件となります。
大聖人の御心にかない、御聖誕八百年を慶祝し、御報恩謝徳申し上げるため、僧俗挙げて真剣に取り組まなければならず、苦労を厭わず、僧俗一致・異体同心の団結による、折伏と育成の積み重ねによって成し遂げられます。
御命題に向かう二年目の本年、全国支部が折伏誓願目標を完遂するとともに、新入講者の育成に力を注いでいかなくてはなりません。
本日は、私どもの因縁と使命を考え、一人ひとりが法華講八十万人体勢構築の主体となっていただきないことを願い、話を進めてまいります。
人との出会いは因縁による
初めに、因縁ということについて考えてみましょう。
私達は、両親や学校の先生から折あるごとに、縁を大切にして生きることを教わってまいりました。
「因縁」「因果の法則」といったことはとても大切であり、仏教における中心思想であり、基本的な
考え方でもあります。
因縁ということを、身近な例を挙げてみますと、ここに花の種があるといたします。この種から花を咲かせようとしても、机の上に置いているだけでは、花は咲くことはありません。
花を咲かせるには、まず土と水が必要です。そして、日光も欠かせません。種は土と出会うことで、
自分の環境を整え、水という栄養を受けながら成長し、日の光で光合成ができ、さらに成長させてもらえるのです。そして、時には台風や大雨といった、厄介な存在に遭遇するかも知れません。
そのよな妨げがあってこそ、しっかり根を張り、どのようなものにも負けない強い根っこを持つようになります。
この場合、種が因であり、水や土や日光は縁となります。そして、花という立派な果を実らせるのであります。
私達の人生も同様であり、因縁によって、様々な人との出会いがあります。自分の好きな人との出会いばかりではなく、時には嫌いな人や、苦手な方にも出会うこともあります。
しかし、そのような厄介な出会いがなければ、人間としての成長はありません。
ある本に「人が成長するには、気の合う人や意見や考えが同じ人は必要ない」というような言葉がありました。
これはどういうことかと言えば、人は、意見や考え方の違う人と接し、努力を重ねることで、人間としての広がりや、深みを持つことになり、結果として、人間として大きく成長することができるということであります。
身近な例として、因縁、因果を考えてみましたが、このように、因縁の因とは物事の原因、縁とはそおの原因を助けるものを言い、物事が成立したり、なくなったりする条件のことを言います。因は果を生ずべき直接的な要因を言い、縁とは因を助け、果を生じさせる間接的な要因ということであります。
私達の人生は、この因果の道理、因縁和合の法則によって成り立っています。
今、私達が日蓮正宗の信心をさせていただき、総本山への参詣がかない、罪障消滅や一生成仏の境界を開いていけるのも、すべて因縁によるのであります。
『論語』に「道を志す者の縁は窮まりがない」という意味の「道縁無窮」(どうえんむきゅう)と言う言葉がございます。
道を志すという「道」の字を使う言葉はたくさんあります。例えば、剣道や柔道といったスポーツの道、茶道や華道といった文化芸術の道、あるいは学問や生き方を探求していく道もございます。どのような分野にいたしましても、道を志していくことによってもたらせる縁は、時空を超えて限りがないということであります。
人との出会いは本当に不思議であり、一瞬の機会が人と人を引き寄せます。現に本日、総本山において、道縁無窮の集まりがここにございます。生まれた時も、育った場所も違う者同士が、大聖人の仏法を求め合うという一点において共鳴し合い、引き合って集う、これが道縁ということであります。
そして、この大聖人の教えが七百五十年以上も連綿と続いており、またこれからも大聖人の教えを求めている人がいるかぎり、永遠に続いていくのであり、「道縁は無窮に続いていく」ことになります。
今私達は、大聖人の御聖誕八百年の向かう佳き時に巡り値(あ)い、折伏を精一杯させていただけることは、大きな功徳善根が、臨終ののちまで待ち越され、私達の未来を輝かせてくれるのであります。
第二祖日興上人は『遺誡置文』(ゆいかいおきもん)のなかで、
「於截仏法に値うこと希(まれ)にして喩(たとえ)を曇華(どんげ)の毫(はなぶさ)に仮り類(たぐい)を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰(ここ)に我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇(あ)い奉ることを得(う)」
(御書 一八八三)
と、私達が過去から大聖人との縁が深いことから、大聖人の弟子となり、三大秘法の仏法に出値えたことは、とても幸せなことであると仰せであります。
よって私達は、死んでもまた生まれ変わっても、大聖人の弟子となり、再び広宣流布の使命を全うできる人材になることを確信して、精進してまいりたいものであります。
一大事因縁
さて次に、「一大事因縁」について話を進めてまいります。
一大事因縁とは、仏様がこの世に出現する本意、最も重大な因縁ということであります。
法華経方便品第二には、
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。(中略)諸仏世尊は、衆生をして
仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう」(法華経 一0一)
とあります。つまり仏様は、私達に仏知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏道に入らせるために、この世に御出現されたということであります。と説かれていますが、私達が住んでいる世の中を仏様が御覧になると、火に燃えさかる家のようなものであると言われています。私達は、その燃えさかる家にありながら、燃えていることに気づかず、目の前のものを貪り、あるいは怒り苦しみ、愚かさに囚われてしまっております。
仏様は、一切の五欲の炎によって燃え、怒りや苦しみ、愚かの炎によって燃えていると御覧になったのであります。
時代が移り変わり物質的には不自由ない時代へ進歩しましたが、人の心は今のなお、貪り、怒り、憎しみ、
愚かさの炎に燃えていると言わざるをえません。世界の至るところで、テロや争いが起こり、憎しみの連鎖は
繰り返されてやむことを知りません。
貪り多き者に「貪るな」と言っても、無理であります。怒り憎しみに燃えている者に「怒るな、憎しみをやめよ」
と、説いてもなかなか難しいものです。そのような時には、人はなぜ貪るのか、人はなぜ怒るのか、憎むのか
という、根本の原因を知らせることが大事です。どうしようもない貪瞋痴(とんじんち)の三毒にまみれた命をどうやって変えていくのか、ここに正しい教えを信仰する理由があるのであります。
そして、五濁悪世と言われる世の中にあって、私達の使命はなんであるかを探求することが、我が命の自覚と使命につながってくるのであります。
先程の方便品に説かれるように、仏様がこの世に出現される因縁は、一切衆生をことごとく成仏へと導くという一大事に存します。そして、大聖人はこの一大事因縁を、
「一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。」(御義口伝・御書一七二八)
と、妙法蓮華経の五字に配され、大聖人の一大事の因縁、出生の本懐がまさしく、大御本尊の建立になることを
仰せになっておられます。
私達は、だれもが仏性を持っていますが、その仏性も善智識の縁に値わなければ、知ることも、悟ることも、顕れてもこないのです。そして、世の中の不幸と苦悩の原因は、『立正安国論』に仰せの、
「世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰(き)す」(同二三四)
故であり、世の中の人々が、日蓮大聖人の三大秘法の仏法に背き、邪義邪宗の謗法に惑わされ、盲信しているからであります。
したがって、邪義邪宗の謗法を破折して退治していかなければ、一人ひとりの幸せと国土の安穏も世界平和も実現することができません。
ここに私達が折伏する意義があり、大聖人の一大事因縁たる大御本尊に帰依させる折伏こそ、私達の使命であることを自覚していただきたいのであります。
小鳥に学ぶ折伏の大事
しかし、御信徒のなかには、折伏は難しいと思われる方がいるかも知れません。そこで、ある経典に説かれる、一羽の小鳥をめぐる話を紹介したいと思います。
「ある時、山に餌を探しに来た一羽の小鳥が道に迷ってしまいました。
すると、動物達が現れて、食べる物や眠る場所を与えて介抱し、小鳥はいつしかその山に暮らすように
なりました。
ところがある日、風に吹かれた木々が擦(こす)れ合ううちに火が起こり、あっという間に火は森全体に燃え広がってしまったのです。最初こそ、ライオンや像などの動物達も火を消そうとしましたが、どうにも手に負えなくなって、皆、山から避難することにしました。
ところが、ふと振り返ってみるとあの一羽の小鳥が近くの池に飛んで行っては、羽にわずかな水滴を浸し、火にかけ続けているのではありませんか。羽も真っ黒に焦げかけています。
その様子を見た動物達は『無駄なことはやめよう。我々が力を尽くしても到底できないことなのに、あなたが数滴の水を羽に浸してかけたとしても、この火を消せるはずがない』と口をそろえて言います。
ところが、小鳥は『私がいくら頑張ったところで火を消すことはできないかも知れません。けれども、私はこの森に大変お世話になりました。お世話になったその森が燃えていくのを、ただ黙って見ているわけにはいかにのです。私は命あるかぎり、水をかけ続けます。』
それを聞いた動物達は『あの小さな小鳥でさえ頑張っっているのだから私達も出来る限りの努力をしよう』
と、引き返してきたのでした。その様子を諸天が御覧になって、大雨を降らし、火を消してくださった」
と、このような話であります。
折伏は、この仏様に説かれる話と同じことです。山が燃えているとは大事件です。なんとか火を消さなければなりませんが、とても自分一人の小さな力では消せません。けれども、たとえ無駄なことだと周囲から言われてやむにやまれぬ気持ちで何かを実践し続けていくと、その姿を見た人達がいつの間にか感化され、一緒に館張り始めるのです。
この経典には、目の前の出来事をそのまま受け止める素直さ、目標を絶対に諦めないでやり遂げる情熱、何度失敗してもめげることのない明るさ、この三つを教えてくださっているように思います。
折伏も同様ではないでしょうか。私達一人ひとりの力は小さなものですが、この小鳥のように、今置かれていた立場で一生懸命、広宣流布への御奉公を申し上げていく、そして折伏と育成を生涯の指針にして、今生人界の思い出としていただきたく思います。
百年に一度の大慶事に巡り合う福徳を感謝しよう
今私達は、縁あって正法を信じ、五年後には、末法の御本仏日蓮大聖人御生誕八百年という大佳節に巡り合うことができるのです。百年に一度の大慶事ということを考えてみれば、今ここにいる全員が、最初で最後ではないかと思います。
大聖人との因縁、そして御僧侶方や全世界の法華講同志の方々とも深い因縁があって、平成の時代に
広宣流布の御遺命に向かえる福徳を、心から感謝申し上げていかなくてはなりません。
御法主日如上人猊下は、本年の新年の辞で、
「謗法の者に対しては、順逆二縁共に妙法を説き、毒鼓の縁を結んで救っていくことが肝要なのであります。」
(大白法・平成二八年一月一日号)
と仰せです。
世の中には、大聖人の仏法を素直に信じ、喜んで信心に励む人もいれば、逆縁と言って、仏様の教えを素直に信じることができない、信心に大反対する人もいます。
しかし、日蓮大聖人の教えは、順縁と逆縁の両方が救われていく大仏法でありますから、相手が聞こうが聞くまいが、強いて心田(しんでん)に妙法を下種していくことが大事であります。
そして、御本尊の縁によって、すべての人が持っている仏性である南無妙法蓮華経が顕れ、必ず即身成仏の境界を開いていくことができるのであります。
『生死一大事血脈抄』に、
「過去に法華経の結縁強盛(けつえんぎょうじょう)なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず」
(御書五一四)
と、大聖人は、私達が未来世において成仏することは、疑いないと断言されておられます。
ここに私達は、御本尊様に巡り合えた縁を尊び、世の中の人々に御本尊との縁を結ばせていくことを使命と心得て、それぞれの地域で、折伏弘教に御精進をお願いいたします。
皆様には本日、大御本尊に誓われたことを忘れず、各地に御帰りになられましたら、指導教師の御住職、あるいは講中の方々との深い因縁を思い、異体同心の団結で、今年の支部の誓願達成を必ず完遂されますよう、心からお祈り申し上げます。
一人ひとりが、正法に出値った縁の尊さ・有り難さを心に刻み、平成三十三年・法華講員八十万人体勢構築の主体者となって、御命題に向かって大前進してまいりましょう。
いよいよの御精進をお祈り申し上げ、講演といたします。
御清聴、有難うございました。
支部総登山・添書登山
布教講演
(平成28年 3月6日)
皆様こんにちは、本修寺住職の園田司道でございます。
皆様には、はるばる総本山へ登山参詣され、たいへん御苦労様でございます。
本日は、「我、八十万人体勢構築の主体者とならん」と題してお話し申し上げます。
さて現在、宗門は平成三十三年・宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年、法華講員八十万人体勢構築に向かって、異体同心・僧俗一致して前進しております。
平成二十六年六月には、慶祝記念局が設置され、宗祖日蓮大聖人の御報恩に供え奉るために、五つの
記念事業が実施されることになっており、すべての事業完遂に向け、僧俗が一体となり、御法主日如上人猊下のもとに進んでおります。
その五つの記念事業のなかでも、特に法華講員八十万人体勢構築の御命題達成こそ、すべての記念事業が成就される前提条件となります。
大聖人の御心にかない、御聖誕八百年を慶祝し、御報恩謝徳申し上げるため、僧俗挙げて真剣に取り組まなければならず、苦労を厭わず、僧俗一致・異体同心の団結による、折伏と育成の積み重ねによって成し遂げられます。
御命題に向かう二年目の本年、全国支部が折伏誓願目標を完遂するとともに、新入講者の育成に力を注いでいかなくてはなりません。
本日は、私どもの因縁と使命を考え、一人ひとりが法華講八十万人体勢構築の主体となっていただきないことを願い、話を進めてまいります。
人との出会いは因縁による
初めに、因縁ということについて考えてみましょう。
私達は、両親や学校の先生から折あるごとに、縁を大切にして生きることを教わってまいりました。
「因縁」「因果の法則」といったことはとても大切であり、仏教における中心思想であり、基本的な
考え方でもあります。
因縁ということを、身近な例を挙げてみますと、ここに花の種があるといたします。この種から花を咲かせようとしても、机の上に置いているだけでは、花は咲くことはありません。
花を咲かせるには、まず土と水が必要です。そして、日光も欠かせません。種は土と出会うことで、
自分の環境を整え、水という栄養を受けながら成長し、日の光で光合成ができ、さらに成長させてもらえるのです。そして、時には台風や大雨といった、厄介な存在に遭遇するかも知れません。
そのよな妨げがあってこそ、しっかり根を張り、どのようなものにも負けない強い根っこを持つようになります。
この場合、種が因であり、水や土や日光は縁となります。そして、花という立派な果を実らせるのであります。
私達の人生も同様であり、因縁によって、様々な人との出会いがあります。自分の好きな人との出会いばかりではなく、時には嫌いな人や、苦手な方にも出会うこともあります。
しかし、そのような厄介な出会いがなければ、人間としての成長はありません。
ある本に「人が成長するには、気の合う人や意見や考えが同じ人は必要ない」というような言葉がありました。
これはどういうことかと言えば、人は、意見や考え方の違う人と接し、努力を重ねることで、人間としての広がりや、深みを持つことになり、結果として、人間として大きく成長することができるということであります。
身近な例として、因縁、因果を考えてみましたが、このように、因縁の因とは物事の原因、縁とはそおの原因を助けるものを言い、物事が成立したり、なくなったりする条件のことを言います。因は果を生ずべき直接的な要因を言い、縁とは因を助け、果を生じさせる間接的な要因ということであります。
私達の人生は、この因果の道理、因縁和合の法則によって成り立っています。
今、私達が日蓮正宗の信心をさせていただき、総本山への参詣がかない、罪障消滅や一生成仏の境界を開いていけるのも、すべて因縁によるのであります。
『論語』に「道を志す者の縁は窮まりがない」という意味の「道縁無窮」(どうえんむきゅう)と言う言葉がございます。
道を志すという「道」の字を使う言葉はたくさんあります。例えば、剣道や柔道といったスポーツの道、茶道や華道といった文化芸術の道、あるいは学問や生き方を探求していく道もございます。どのような分野にいたしましても、道を志していくことによってもたらせる縁は、時空を超えて限りがないということであります。
人との出会いは本当に不思議であり、一瞬の機会が人と人を引き寄せます。現に本日、総本山において、道縁無窮の集まりがここにございます。生まれた時も、育った場所も違う者同士が、大聖人の仏法を求め合うという一点において共鳴し合い、引き合って集う、これが道縁ということであります。
そして、この大聖人の教えが七百五十年以上も連綿と続いており、またこれからも大聖人の教えを求めている人がいるかぎり、永遠に続いていくのであり、「道縁は無窮に続いていく」ことになります。
今私達は、大聖人の御聖誕八百年の向かう佳き時に巡り値(あ)い、折伏を精一杯させていただけることは、大きな功徳善根が、臨終ののちまで待ち越され、私達の未来を輝かせてくれるのであります。
第二祖日興上人は『遺誡置文』(ゆいかいおきもん)のなかで、
「於截仏法に値うこと希(まれ)にして喩(たとえ)を曇華(どんげ)の毫(はなぶさ)に仮り類(たぐい)を浮木の穴に比せん、尚以て足らざる者か、爰(ここ)に我等宿縁深厚なるに依つて幸に此の経に遇(あ)い奉ることを得(う)」
(御書 一八八三)
と、私達が過去から大聖人との縁が深いことから、大聖人の弟子となり、三大秘法の仏法に出値えたことは、とても幸せなことであると仰せであります。
よって私達は、死んでもまた生まれ変わっても、大聖人の弟子となり、再び広宣流布の使命を全うできる人材になることを確信して、精進してまいりたいものであります。
一大事因縁
さて次に、「一大事因縁」について話を進めてまいります。
一大事因縁とは、仏様がこの世に出現する本意、最も重大な因縁ということであります。
法華経方便品第二には、
「諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもう。(中略)諸仏世尊は、衆生をして
仏知見を開かしめ、清浄なるを得せしめんと欲するが故に世に出現したもう」(法華経 一0一)
とあります。つまり仏様は、私達に仏知見を開かしめ、示し、悟らせ、仏道に入らせるために、この世に御出現されたということであります。と説かれていますが、私達が住んでいる世の中を仏様が御覧になると、火に燃えさかる家のようなものであると言われています。私達は、その燃えさかる家にありながら、燃えていることに気づかず、目の前のものを貪り、あるいは怒り苦しみ、愚かさに囚われてしまっております。
仏様は、一切の五欲の炎によって燃え、怒りや苦しみ、愚かの炎によって燃えていると御覧になったのであります。
時代が移り変わり物質的には不自由ない時代へ進歩しましたが、人の心は今のなお、貪り、怒り、憎しみ、
愚かさの炎に燃えていると言わざるをえません。世界の至るところで、テロや争いが起こり、憎しみの連鎖は
繰り返されてやむことを知りません。
貪り多き者に「貪るな」と言っても、無理であります。怒り憎しみに燃えている者に「怒るな、憎しみをやめよ」
と、説いてもなかなか難しいものです。そのような時には、人はなぜ貪るのか、人はなぜ怒るのか、憎むのか
という、根本の原因を知らせることが大事です。どうしようもない貪瞋痴(とんじんち)の三毒にまみれた命をどうやって変えていくのか、ここに正しい教えを信仰する理由があるのであります。
そして、五濁悪世と言われる世の中にあって、私達の使命はなんであるかを探求することが、我が命の自覚と使命につながってくるのであります。
先程の方便品に説かれるように、仏様がこの世に出現される因縁は、一切衆生をことごとく成仏へと導くという一大事に存します。そして、大聖人はこの一大事因縁を、
「一とは妙なり、心とは法なり、欲とは蓮なり、見とは華なり、仏とは経なり。」(御義口伝・御書一七二八)
と、妙法蓮華経の五字に配され、大聖人の一大事の因縁、出生の本懐がまさしく、大御本尊の建立になることを
仰せになっておられます。
私達は、だれもが仏性を持っていますが、その仏性も善智識の縁に値わなければ、知ることも、悟ることも、顕れてもこないのです。そして、世の中の不幸と苦悩の原因は、『立正安国論』に仰せの、
「世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰(き)す」(同二三四)
故であり、世の中の人々が、日蓮大聖人の三大秘法の仏法に背き、邪義邪宗の謗法に惑わされ、盲信しているからであります。
したがって、邪義邪宗の謗法を破折して退治していかなければ、一人ひとりの幸せと国土の安穏も世界平和も実現することができません。
ここに私達が折伏する意義があり、大聖人の一大事因縁たる大御本尊に帰依させる折伏こそ、私達の使命であることを自覚していただきたいのであります。
小鳥に学ぶ折伏の大事
しかし、御信徒のなかには、折伏は難しいと思われる方がいるかも知れません。そこで、ある経典に説かれる、一羽の小鳥をめぐる話を紹介したいと思います。
「ある時、山に餌を探しに来た一羽の小鳥が道に迷ってしまいました。
すると、動物達が現れて、食べる物や眠る場所を与えて介抱し、小鳥はいつしかその山に暮らすように
なりました。
ところがある日、風に吹かれた木々が擦(こす)れ合ううちに火が起こり、あっという間に火は森全体に燃え広がってしまったのです。最初こそ、ライオンや像などの動物達も火を消そうとしましたが、どうにも手に負えなくなって、皆、山から避難することにしました。
ところが、ふと振り返ってみるとあの一羽の小鳥が近くの池に飛んで行っては、羽にわずかな水滴を浸し、火にかけ続けているのではありませんか。羽も真っ黒に焦げかけています。
その様子を見た動物達は『無駄なことはやめよう。我々が力を尽くしても到底できないことなのに、あなたが数滴の水を羽に浸してかけたとしても、この火を消せるはずがない』と口をそろえて言います。
ところが、小鳥は『私がいくら頑張ったところで火を消すことはできないかも知れません。けれども、私はこの森に大変お世話になりました。お世話になったその森が燃えていくのを、ただ黙って見ているわけにはいかにのです。私は命あるかぎり、水をかけ続けます。』
それを聞いた動物達は『あの小さな小鳥でさえ頑張っっているのだから私達も出来る限りの努力をしよう』
と、引き返してきたのでした。その様子を諸天が御覧になって、大雨を降らし、火を消してくださった」
と、このような話であります。
折伏は、この仏様に説かれる話と同じことです。山が燃えているとは大事件です。なんとか火を消さなければなりませんが、とても自分一人の小さな力では消せません。けれども、たとえ無駄なことだと周囲から言われてやむにやまれぬ気持ちで何かを実践し続けていくと、その姿を見た人達がいつの間にか感化され、一緒に館張り始めるのです。
この経典には、目の前の出来事をそのまま受け止める素直さ、目標を絶対に諦めないでやり遂げる情熱、何度失敗してもめげることのない明るさ、この三つを教えてくださっているように思います。
折伏も同様ではないでしょうか。私達一人ひとりの力は小さなものですが、この小鳥のように、今置かれていた立場で一生懸命、広宣流布への御奉公を申し上げていく、そして折伏と育成を生涯の指針にして、今生人界の思い出としていただきたく思います。
百年に一度の大慶事に巡り合う福徳を感謝しよう
今私達は、縁あって正法を信じ、五年後には、末法の御本仏日蓮大聖人御生誕八百年という大佳節に巡り合うことができるのです。百年に一度の大慶事ということを考えてみれば、今ここにいる全員が、最初で最後ではないかと思います。
大聖人との因縁、そして御僧侶方や全世界の法華講同志の方々とも深い因縁があって、平成の時代に
広宣流布の御遺命に向かえる福徳を、心から感謝申し上げていかなくてはなりません。
御法主日如上人猊下は、本年の新年の辞で、
「謗法の者に対しては、順逆二縁共に妙法を説き、毒鼓の縁を結んで救っていくことが肝要なのであります。」
(大白法・平成二八年一月一日号)
と仰せです。
世の中には、大聖人の仏法を素直に信じ、喜んで信心に励む人もいれば、逆縁と言って、仏様の教えを素直に信じることができない、信心に大反対する人もいます。
しかし、日蓮大聖人の教えは、順縁と逆縁の両方が救われていく大仏法でありますから、相手が聞こうが聞くまいが、強いて心田(しんでん)に妙法を下種していくことが大事であります。
そして、御本尊の縁によって、すべての人が持っている仏性である南無妙法蓮華経が顕れ、必ず即身成仏の境界を開いていくことができるのであります。
『生死一大事血脈抄』に、
「過去に法華経の結縁強盛(けつえんぎょうじょう)なる故に現在に此の経を受持す、未来に仏果を成就せん事疑有るべからず」
(御書五一四)
と、大聖人は、私達が未来世において成仏することは、疑いないと断言されておられます。
ここに私達は、御本尊様に巡り合えた縁を尊び、世の中の人々に御本尊との縁を結ばせていくことを使命と心得て、それぞれの地域で、折伏弘教に御精進をお願いいたします。
皆様には本日、大御本尊に誓われたことを忘れず、各地に御帰りになられましたら、指導教師の御住職、あるいは講中の方々との深い因縁を思い、異体同心の団結で、今年の支部の誓願達成を必ず完遂されますよう、心からお祈り申し上げます。
一人ひとりが、正法に出値った縁の尊さ・有り難さを心に刻み、平成三十三年・法華講員八十万人体勢構築の主体者となって、御命題に向かって大前進してまいりましょう。
いよいよの御精進をお祈り申し上げ、講演といたします。
御清聴、有難うございました。