東京府中市 大修寺支部 小松茂範(大修寺総代)
御供養推進について私は
・御供養は真心で素直に
・在家の先達がこれを教える
・御供養の必要を知る
ということが大事だと思っております。御供養は、先に立って教えてくれる方の影響が大きいと思いますが、私の場合は
柳澤元委員長さんでした。
幾度か大きな御供養に巡り合ってまいりました。最初は昭和三十九年落慶の大客殿、次いで昭和四十七年度の正本堂です。
当時の創価学会員たちも、それぞれに御供養の功徳を戴いたでしょうに、それを忘れて本門戒壇大御本尊様から離れてしまった今の有り様は、何ともかわいそうで、救っていかなければなりません。
私の入信は昭和三十一年、二十六歳の時です。入信当初、講頭でもあった柳澤元委員長さんに
「ちゃんと信心すれば(言われた通りまじめに励めば)三年で家が建つぞ」
と言われた時は、正直なところ、
「そんなばかな」
と思いました。
当時、小さな安普請(やすぶしん)の家でも、一軒建てるのに百万円ほどかかりました。大工である私は自分で建てますが
、それでも七十万はかかります。私の手間賃は一日八百円。ひと月の生活費が六千円支払っていたのですから、そんな言葉は到底、信じられなかったのです。
しかしながら、入信から三年後の昭和三十四年には二十坪の土地を手に入れて、古材が中心でしたけれども建坪十二坪の家を建てることができました。
その最初に建てた家に一年半も住んでいた頃でしょうか、「もう、ここから移ろうかと思う」と口にしてから、聞いていた
近所の世話好きの方が、頼んだ訳でもないのにすぐに買い手を連れてきてくれ、その家が百五十万で売れました。
しばらく借家に住んでいたところ、昭和二十七年七月に大家さんから「建て替えるから出て欲しい」と言われたので
、今の家に近い借家に引っ越して五年くらい住み、その間で、現在住んでいる所に四十五坪の土地を求めておきました。
二つめに移り住んだ借家に柳澤元委員長さんが来訪された折、
「他人(ひと)様の家を造る者がこのような借家に住んでいてはだめだ」
と強く言われました。
「実は土地を購入してありまして」と報告すると、「すぐにそこに家を建てなさい」と言われ、昭和四十二年の暮れから急いで建て始め、四十三年の春に引っ越しました。それが今住んでいる家で、その後、増改築を施(ほどこ)して住み続けることができています。
昭和四十七年には菩提寺である本行寺新築にも巡り合えました。その後、平成三年に本行寺から百四世帯を株分けして大修寺支部結成となるのですが、この本行寺新築の御供養は、正本堂の御供養と時期が重なったため、当初はどうなることかと思いました。
それでも、柳澤元委員長さんが講中に向けて「大卒の初任給である十万円を基準として、全員がこの目標を目指して励む」と方針を示してくださったので、一軒一軒、一人ひとりがそれに向かって一生懸命でした。
私自身も、「我が家は働き手が自分一人でたいへんではあるけれど、何とか打ち出された額を目標にしてがんばろう」と思っていました。
ところが、座談会に出ると、御供養に頑張っている人の体験で目標額が大きいのを聞いて、私の目指していた額は何度かひっくり返され、自分の中で御供養の目標額が上がっていきました。
家内も、家を空けられないので洋裁仕事の内職をして、御供養のお金を作り出しました。そうやって切磋琢磨したあの時の熱気と共に、御供養の受付当日、丹精(たんせい)した御供養を持ってお寺に集まった講員の誰も彼もの顔が、隠し切れない喜びにあふれていたことを思い出します。
そして御供養の後は、あちらでもこちらでもと、講中で家が建つ話をずいぶん聞きました。
一方で、その時にも現役で仕事をしていない高齢者はいて、
「また御供養か」
と口にするのを聞いた柳沢総講頭さんは、その人を呼んで
「そういうことを口にするでない。できる範囲でいいんだ。仏様はただ取らないよ(受け取るだけではなく必ず利益をくださる)」
と、考えを改めさせておられました。
そういった振る舞いや講中のたくさんの人の体験を通して、「これしかできない精いっぱい」をするのが、本当の御供養だと教わってまいりました。
力いっぱい励めるようにしてくださった先達のお陰で、今があります。安心して息子夫婦、優しい孫たちと明るく暮らすことができ、外にも
「おじいちゃんの孫に産まれて僕は本当に幸せ者だ。小さい頃からおじいちゃんの大きな背中を見ながら勤行・唱題し、自然と憧れがあったので、一歩でもおじいちゃんに近づけるように、折伏できるように、もっと支部が繁栄するように、がんばる。平成三十三年に僕が総本山まで連れていくから元気で長生きしてね」
と言ってくれる孫がおります。
その孫はかつて大病を患(わずら)った(大白法七一号に体験発表掲載)ために、子供をもうけるのは無理と医者に言われましたが、無事に子供に恵まれました。
私共夫婦にとってひ孫となるその赤ちゃんは、本年十月、お寺の御会式に初詣りして御受戒を受けました。
出家されて世俗から離れていらっしゃる御僧侶をお支えするのは、在家の我々の役目です。お寺に来る人は、そういう御供養の意義はよく承知しているでしょうが、ふだんお寺に来ない人、小さい子供たちにいたるまで御供養をよくよく考えていくことが大切です。
令法久住(りょうぼうくじゅう)のため、私たちも今の「精いっぱい」で御供養に取り組む姿をもって、若い人たちに教えていきたいと思っております。
(大白法 第九四五号 平成二十八年十一月十六日)
御供養推進について私は
・御供養は真心で素直に
・在家の先達がこれを教える
・御供養の必要を知る
ということが大事だと思っております。御供養は、先に立って教えてくれる方の影響が大きいと思いますが、私の場合は
柳澤元委員長さんでした。
幾度か大きな御供養に巡り合ってまいりました。最初は昭和三十九年落慶の大客殿、次いで昭和四十七年度の正本堂です。
当時の創価学会員たちも、それぞれに御供養の功徳を戴いたでしょうに、それを忘れて本門戒壇大御本尊様から離れてしまった今の有り様は、何ともかわいそうで、救っていかなければなりません。
私の入信は昭和三十一年、二十六歳の時です。入信当初、講頭でもあった柳澤元委員長さんに
「ちゃんと信心すれば(言われた通りまじめに励めば)三年で家が建つぞ」
と言われた時は、正直なところ、
「そんなばかな」
と思いました。
当時、小さな安普請(やすぶしん)の家でも、一軒建てるのに百万円ほどかかりました。大工である私は自分で建てますが
、それでも七十万はかかります。私の手間賃は一日八百円。ひと月の生活費が六千円支払っていたのですから、そんな言葉は到底、信じられなかったのです。
しかしながら、入信から三年後の昭和三十四年には二十坪の土地を手に入れて、古材が中心でしたけれども建坪十二坪の家を建てることができました。
その最初に建てた家に一年半も住んでいた頃でしょうか、「もう、ここから移ろうかと思う」と口にしてから、聞いていた
近所の世話好きの方が、頼んだ訳でもないのにすぐに買い手を連れてきてくれ、その家が百五十万で売れました。
しばらく借家に住んでいたところ、昭和二十七年七月に大家さんから「建て替えるから出て欲しい」と言われたので
、今の家に近い借家に引っ越して五年くらい住み、その間で、現在住んでいる所に四十五坪の土地を求めておきました。
二つめに移り住んだ借家に柳澤元委員長さんが来訪された折、
「他人(ひと)様の家を造る者がこのような借家に住んでいてはだめだ」
と強く言われました。
「実は土地を購入してありまして」と報告すると、「すぐにそこに家を建てなさい」と言われ、昭和四十二年の暮れから急いで建て始め、四十三年の春に引っ越しました。それが今住んでいる家で、その後、増改築を施(ほどこ)して住み続けることができています。
昭和四十七年には菩提寺である本行寺新築にも巡り合えました。その後、平成三年に本行寺から百四世帯を株分けして大修寺支部結成となるのですが、この本行寺新築の御供養は、正本堂の御供養と時期が重なったため、当初はどうなることかと思いました。
それでも、柳澤元委員長さんが講中に向けて「大卒の初任給である十万円を基準として、全員がこの目標を目指して励む」と方針を示してくださったので、一軒一軒、一人ひとりがそれに向かって一生懸命でした。
私自身も、「我が家は働き手が自分一人でたいへんではあるけれど、何とか打ち出された額を目標にしてがんばろう」と思っていました。
ところが、座談会に出ると、御供養に頑張っている人の体験で目標額が大きいのを聞いて、私の目指していた額は何度かひっくり返され、自分の中で御供養の目標額が上がっていきました。
家内も、家を空けられないので洋裁仕事の内職をして、御供養のお金を作り出しました。そうやって切磋琢磨したあの時の熱気と共に、御供養の受付当日、丹精(たんせい)した御供養を持ってお寺に集まった講員の誰も彼もの顔が、隠し切れない喜びにあふれていたことを思い出します。
そして御供養の後は、あちらでもこちらでもと、講中で家が建つ話をずいぶん聞きました。
一方で、その時にも現役で仕事をしていない高齢者はいて、
「また御供養か」
と口にするのを聞いた柳沢総講頭さんは、その人を呼んで
「そういうことを口にするでない。できる範囲でいいんだ。仏様はただ取らないよ(受け取るだけではなく必ず利益をくださる)」
と、考えを改めさせておられました。
そういった振る舞いや講中のたくさんの人の体験を通して、「これしかできない精いっぱい」をするのが、本当の御供養だと教わってまいりました。
力いっぱい励めるようにしてくださった先達のお陰で、今があります。安心して息子夫婦、優しい孫たちと明るく暮らすことができ、外にも
「おじいちゃんの孫に産まれて僕は本当に幸せ者だ。小さい頃からおじいちゃんの大きな背中を見ながら勤行・唱題し、自然と憧れがあったので、一歩でもおじいちゃんに近づけるように、折伏できるように、もっと支部が繁栄するように、がんばる。平成三十三年に僕が総本山まで連れていくから元気で長生きしてね」
と言ってくれる孫がおります。
その孫はかつて大病を患(わずら)った(大白法七一号に体験発表掲載)ために、子供をもうけるのは無理と医者に言われましたが、無事に子供に恵まれました。
私共夫婦にとってひ孫となるその赤ちゃんは、本年十月、お寺の御会式に初詣りして御受戒を受けました。
出家されて世俗から離れていらっしゃる御僧侶をお支えするのは、在家の我々の役目です。お寺に来る人は、そういう御供養の意義はよく承知しているでしょうが、ふだんお寺に来ない人、小さい子供たちにいたるまで御供養をよくよく考えていくことが大切です。
令法久住(りょうぼうくじゅう)のため、私たちも今の「精いっぱい」で御供養に取り組む姿をもって、若い人たちに教えていきたいと思っております。
(大白法 第九四五号 平成二十八年十一月十六日)