折伏にしろ信心の育成にしろ、それを行っていくのは私たち「人」である。
さらにもう一歩進めて、支部において広布を大きく推進していくのは、支部や地区の役員である。
広布を担(にな)い、広布を推進していく人に何が求められるのだろうか。また、どうあるべきなのだろうか。
私たち人間は、往々にして自分の短所や欠点には気が付かない。あるいは気が付くことはあってもそれを敢(あ)えて問わずに、他人の短所や欠点を探し求め、これを咎(とが)め、質(ただ)していこうとする傾向がある。
むしろ無意識の中にそのことを実行している。
特に役員について言えば、尊敬し信頼できる役員にめぐり値(あ)うことができれば、これほど有難いことはないが、その上役(うわやく)の方に癖(くせ)があったり、欠点・短所が多い場合は、私たちは次第に尊敬の念や信頼を失い、連絡や報告や相談も滞(とどこお)りがちとなり、信心活動に多大な悪影響を及ぼすことになる。
確かに、自分の癖や短所を冷静に見つめ、これを改めようと努力しない役員にも問題はある。当然、役が重ければ重いほど、完璧(かんぺき)さや完全さが周囲から求められるのであるから、自らの身を正し、常に謙虚に振舞ってこそ、周りの人々の協力も得られ、人もついて来るのである。
しかしまた、一般講員の側にも、役員の人物評価に問題はないだろうか。また周りの人に対して、あるいは役員に対して、余りにも完璧さを求め過ぎる、ということはないだろうか。箕子(きし)の編(へん)した『尚書』(しょうしょ)(書経)にも、
「人と与(とも)にするには備(そな)わらんことを求めず。-中略ー 身を検(けん)するは及ばざるが若(ごと)し」
と説いている。人と接する場合には、相手になにもかも完璧に備わっていることを求めてはならないと言うのである。
相手に完全を求め過ぎてはならず、反対に自分自身に対しては、常に至らないものであると認識することの大切さを教えている。皆が、「自分は完全である。しかし、相手が至らない」と捉(とら)えると、そこにはまず、自分自身への驕(おご)りや過信が生じ、反省など起こるはずもなく、「全て相手が悪い」で終わってしまうだろう。その結果、自ら不満やトラブルの絶えない人間関係を造り出し、その中で苦しまなければならなくなる。
これに対して、『尚書』が言うように、相手には完璧を求めず、しかも自分は常に至らない者だ、自分は不出来な者だ、と思い、行動していくならば、必要以上に他の人を責めることもなくなり、自分自身への反省も生まれ、常に他への思いやりと協調の中に、バランスのとれた穏やかな人間関係を築いていくことができるようになる。
世法においても、また信心の組織においても、相手にのみ完全を求めず、反面また、自らの不出来を認識しつつ生きていくということは、他の人に振り回されない、主体性のある生き方をしていく上で極めて大切なことである。特に信心の組織において、つい私たちは
「御住職が・・」
「講頭が・・」
「役員が・・」
というように、成果の上がらないことや悪いことは、全て他の人の責任にしてしまったり、人の欠点や短所をあげつらい、信心活動から遠ざかり、中には組織嫌いとなって、ひとり信心に陥(おちい)ってしまう人も出てくる。これは、一つには余りにも周りの人に対し、あるいは幹部・役員に対して、人間としての完全さを求め過ぎていて、その結果、人に振り回された信心をしているためではないかと考えられる。
他人は完全でなくても、至らない自分、もしくは至らない自分の信心を完成させていくべく、目を足元に向け、人に振り回されない主体性のある信心を確立していくべきであろう。
そもそも末法は、五濁悪世(ごじょくあくせ)と言われるように、時代も社会も衆生も、そして人の命もおしなべて濁(にご)っている。
したがって、役員といえども、欠点や短所や癖のない人などは誰一人としていない、と言うべきであろう。
これは欠点のある役員を庇(かば)う言葉ではなく、現実を正しく認識し、その上でどのように考え、対応していったら良いか、ということを提案しているのである。
人材を登用するに当たって、江戸時代中期の、尾張藩(おわりはん)の儒臣(じゅしん)・布施維安(ふせいあん)という人が、次のようなことを言っている。
「人を用(もち)うるは其(そ)の短(たん)を棄(す)て、長(ちょう)(長所)を用うべし、人に癖(くせ)無き者は稀(まれ)なり。
大本(おおもと)(基本・根本)の所だに違(ちがい)なくば、少しの癖は癖にはならず。或(あるい)は一事仕損(いちじしそん)じたりとて遽(にわか)に其(そ)の人を捨(す)つべからず。大本(おおもと)の所が慥(たしか)なる人ならば、過(あやまち)を許して任用すべし、然らば人材を尽(つく)すこと能(あた)わず」(治邦要訣(ちほうようけつ))
信心の面においても同じことが言える。誰にでも短所や癖はあるのだから、それらは咎(とが)めだてず、基本が間違いなければ、その人の長所や良い点を活(い)かし、用いていくべきである。
また、多少の失敗があったとしても、直ちにその人を捨てるようなことはせずに、つまり、役や任務から外(はず)すようなことはせずに、その失敗を許し、激励し指導して、育てていくことが大切である。そのような忍耐と努力がなければ、人材が輩出(はいしゅつ)することはないのである。大聖人は、拝読の御文の中で、
「妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤(いや)しくとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使ひかと思ふべし」
(法華初心成仏抄 御書一三一三㌻)
と仰せられているように、大聖人の仏法を正しく護持し、弘通する者は、たとえその身が賤(いや)しくても、あるいは癖や欠点を多く持っていたとしても、末法に出現して、妙法を弘通する尊い使命を担った地涌の菩薩の化身であり、御本仏日蓮大聖人の御使いの者と心得て、共に自らの使命を果たすべく、広布のために精進していくべきである。
お互いがそのように認識を改めていくことにより、誰も広布の人材として活かされていくのである。
三事相応して祈りも成就
『三事相応』とは、普段余り耳にしない言葉であるが、たとえば『問注得意抄』には、
「仏経と行者と檀那(だんな)と三事相応して一事(いちじ)を成ぜんが為に愚言(ぐげん)を出(い)だす処なり」
(御書 四一七㌻)
とあり、また『新田殿御書』には、
「経は法華経、ー中略ー仏は釈迦仏、ー中略ー 行者は法華経の行者に相似たり。三事既(すで)に相応(そうおう)せり。檀那(だんな)の一願(いちがん)必ず成就せんか。」
(御書 一四七0㌻)
とあって、法と師と信徒の三つが、あるいは法と仏と師との三つが揃(そろ)い、あい応じ、具足することを三事相応と御教示されている。
本抄拝読(法華初心成仏抄)の御文では、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し」(御書 一三一四㌻)
とあり、良き法と良き師匠と良き檀那(信徒)との三つが揃(そろ)い、あい応じた時に祈りが成就すると、三事相応の上から祈りが叶うことを明かされている。
本抄ではこの後、三事の一つ一つについて詳しく説明されているので、御文(御書 一三一三㌻)の意に従って三事を示しておきたい。
本文と順番が異なるが、まず「良き法」については、仏の一代の聖教(しょうぎょう)の中において、仏は法華経を最も第一の法と説かれており、巳説(いせつ)(法華経巳前の諸経)・今説(法華経の序説にあたる無量義経)・当説(とうせつ)(涅槃経)の三説の中において、法華経が第一の法であるが故に、良き法となる旨を明かされている。
今日末法においては、本門寿量品文底の下種の三大秘法であり、この最上第一の妙法をもって御祈念することが、肝要である旨を示されている。
次に「良き師」とは、根本は末法の御本仏、日蓮大聖人であり、また大聖人からの血脈を受け継ぎ門下を統率される代々の御法主上人猊下である。
さらに御法主上人の代官(だいかん)として、私たち法華講員を直接指導して下さる末寺の御住職・御主管、即ち指導教師も僧宝(そうぼう)の意義の上から、良き師と拝していくことが大切である。
その良き師とは、「さほどの世法上の欠点もなく、また少しも人に媚(こ)びへつらうこともなく、僅(わず)かなものでも足(た)ることを知り、慈悲のある僧侶であり、さらにそれに加えて、最為第一(さいいだいいち)と説かれている
経文の意に任せて法華経を受持・読誦し、人にも勧(すす)めて持(たも)たせようのする僧侶は、全ての僧侶の中でも良き第一の法師であると仏は讃められている」と仰せである。
次に大聖人の仰せられる「良き檀那(信徒)」とは、「相手の身分の貴賤(きせん)によって、心や態度を変えたりすることなく、全ての判断を人に依らず、法の道理をもって判断し、一切経の中で、仏の出生の本懐の経典である法華経を持(たも)つ人こそ、
全ての人の中でも良き人、良き信徒である」と御指南されている。
特に良き信徒についてもう少し言及すると、本抄(法華初心成仏抄)に、
「貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして云云」(御書一三一四㌻)
と誡(いまし)められているように、相手の身分や立場や役職などによって、その人に対する思い、言葉、行動を変えてはいけないと説かれている。
これは基本的に、相手がどのような人であろうとも、その相手を貴び、敬い、慈悲の一念をもって接していく、という人間観を築き上げていくことの重要性を説かれたものと拝される。また、
「一切人をば用ひずして」(同 一三一四㌻)
とは、信心していても、私たちはつい利害や損得を計算して、自分にプラスになる人、利益を与えてくれる人に付こうという、俗世間の生命(いのち)をそのまま仏法に持ち込んでくることがある。
この構図は、お互いがお互いを利用し合おうという結びつきになっていることは言うまでもない。このような利害や損得を考慮し、利用し合うなどという世法の人のつながりの中では、仏法の正義と道理を立てていくことはできない。
故に「一切人をば用ひずして」と誡(いまし)められているように、人を頼(たよ)り、人を用いて、仏法の道理に背くことのないように諭(さと)されているのである。
人間は社会的動物である故に、人の集まるところには、様々な力関係が生まれ、人を配下に入れようとする人や、またその配下に入ろうとする人が必ず現れるものである。
いわゆる徒党(ととう)を組もうとするのであるが、信心の組織においては、信心活動の多大な妨(さまた)げとなる偏頗(へんぱ)な徒党は組まないように、お互いに心がけていくべきであろう。
「涅槃経」にも、依法不依人(えほうふえにん)(法に依って人に依らざれ)」との誡めがあるが、公平無私である法の道理を根本として立てていってこそ、講中も正しく発展していくことができるのである。
良き法、即ち末法における寿量品文底下種の三大秘法を信受した良き指導教師と良き信徒とが、心を同じくし、同じ祈りをなすことにより、種々の願いも、さらに広宣流布という大願も成就していくのである。
(中略)
三事相応の原則に従って、僧俗相和(あいわ)して共々に祈り、題目を唱え、活動していこうではないか。
(平成十三年十月号 妙教 信行のポイントより)
さらにもう一歩進めて、支部において広布を大きく推進していくのは、支部や地区の役員である。
広布を担(にな)い、広布を推進していく人に何が求められるのだろうか。また、どうあるべきなのだろうか。
私たち人間は、往々にして自分の短所や欠点には気が付かない。あるいは気が付くことはあってもそれを敢(あ)えて問わずに、他人の短所や欠点を探し求め、これを咎(とが)め、質(ただ)していこうとする傾向がある。
むしろ無意識の中にそのことを実行している。
特に役員について言えば、尊敬し信頼できる役員にめぐり値(あ)うことができれば、これほど有難いことはないが、その上役(うわやく)の方に癖(くせ)があったり、欠点・短所が多い場合は、私たちは次第に尊敬の念や信頼を失い、連絡や報告や相談も滞(とどこお)りがちとなり、信心活動に多大な悪影響を及ぼすことになる。
確かに、自分の癖や短所を冷静に見つめ、これを改めようと努力しない役員にも問題はある。当然、役が重ければ重いほど、完璧(かんぺき)さや完全さが周囲から求められるのであるから、自らの身を正し、常に謙虚に振舞ってこそ、周りの人々の協力も得られ、人もついて来るのである。
しかしまた、一般講員の側にも、役員の人物評価に問題はないだろうか。また周りの人に対して、あるいは役員に対して、余りにも完璧さを求め過ぎる、ということはないだろうか。箕子(きし)の編(へん)した『尚書』(しょうしょ)(書経)にも、
「人と与(とも)にするには備(そな)わらんことを求めず。-中略ー 身を検(けん)するは及ばざるが若(ごと)し」
と説いている。人と接する場合には、相手になにもかも完璧に備わっていることを求めてはならないと言うのである。
相手に完全を求め過ぎてはならず、反対に自分自身に対しては、常に至らないものであると認識することの大切さを教えている。皆が、「自分は完全である。しかし、相手が至らない」と捉(とら)えると、そこにはまず、自分自身への驕(おご)りや過信が生じ、反省など起こるはずもなく、「全て相手が悪い」で終わってしまうだろう。その結果、自ら不満やトラブルの絶えない人間関係を造り出し、その中で苦しまなければならなくなる。
これに対して、『尚書』が言うように、相手には完璧を求めず、しかも自分は常に至らない者だ、自分は不出来な者だ、と思い、行動していくならば、必要以上に他の人を責めることもなくなり、自分自身への反省も生まれ、常に他への思いやりと協調の中に、バランスのとれた穏やかな人間関係を築いていくことができるようになる。
世法においても、また信心の組織においても、相手にのみ完全を求めず、反面また、自らの不出来を認識しつつ生きていくということは、他の人に振り回されない、主体性のある生き方をしていく上で極めて大切なことである。特に信心の組織において、つい私たちは
「御住職が・・」
「講頭が・・」
「役員が・・」
というように、成果の上がらないことや悪いことは、全て他の人の責任にしてしまったり、人の欠点や短所をあげつらい、信心活動から遠ざかり、中には組織嫌いとなって、ひとり信心に陥(おちい)ってしまう人も出てくる。これは、一つには余りにも周りの人に対し、あるいは幹部・役員に対して、人間としての完全さを求め過ぎていて、その結果、人に振り回された信心をしているためではないかと考えられる。
他人は完全でなくても、至らない自分、もしくは至らない自分の信心を完成させていくべく、目を足元に向け、人に振り回されない主体性のある信心を確立していくべきであろう。
そもそも末法は、五濁悪世(ごじょくあくせ)と言われるように、時代も社会も衆生も、そして人の命もおしなべて濁(にご)っている。
したがって、役員といえども、欠点や短所や癖のない人などは誰一人としていない、と言うべきであろう。
これは欠点のある役員を庇(かば)う言葉ではなく、現実を正しく認識し、その上でどのように考え、対応していったら良いか、ということを提案しているのである。
人材を登用するに当たって、江戸時代中期の、尾張藩(おわりはん)の儒臣(じゅしん)・布施維安(ふせいあん)という人が、次のようなことを言っている。
「人を用(もち)うるは其(そ)の短(たん)を棄(す)て、長(ちょう)(長所)を用うべし、人に癖(くせ)無き者は稀(まれ)なり。
大本(おおもと)(基本・根本)の所だに違(ちがい)なくば、少しの癖は癖にはならず。或(あるい)は一事仕損(いちじしそん)じたりとて遽(にわか)に其(そ)の人を捨(す)つべからず。大本(おおもと)の所が慥(たしか)なる人ならば、過(あやまち)を許して任用すべし、然らば人材を尽(つく)すこと能(あた)わず」(治邦要訣(ちほうようけつ))
信心の面においても同じことが言える。誰にでも短所や癖はあるのだから、それらは咎(とが)めだてず、基本が間違いなければ、その人の長所や良い点を活(い)かし、用いていくべきである。
また、多少の失敗があったとしても、直ちにその人を捨てるようなことはせずに、つまり、役や任務から外(はず)すようなことはせずに、その失敗を許し、激励し指導して、育てていくことが大切である。そのような忍耐と努力がなければ、人材が輩出(はいしゅつ)することはないのである。大聖人は、拝読の御文の中で、
「妙法の五字を弘め給はん智者をば、いかに賤(いや)しくとも上行菩薩の化身か、又釈迦如来の御使ひかと思ふべし」
(法華初心成仏抄 御書一三一三㌻)
と仰せられているように、大聖人の仏法を正しく護持し、弘通する者は、たとえその身が賤(いや)しくても、あるいは癖や欠点を多く持っていたとしても、末法に出現して、妙法を弘通する尊い使命を担った地涌の菩薩の化身であり、御本仏日蓮大聖人の御使いの者と心得て、共に自らの使命を果たすべく、広布のために精進していくべきである。
お互いがそのように認識を改めていくことにより、誰も広布の人材として活かされていくのである。
三事相応して祈りも成就
『三事相応』とは、普段余り耳にしない言葉であるが、たとえば『問注得意抄』には、
「仏経と行者と檀那(だんな)と三事相応して一事(いちじ)を成ぜんが為に愚言(ぐげん)を出(い)だす処なり」
(御書 四一七㌻)
とあり、また『新田殿御書』には、
「経は法華経、ー中略ー仏は釈迦仏、ー中略ー 行者は法華経の行者に相似たり。三事既(すで)に相応(そうおう)せり。檀那(だんな)の一願(いちがん)必ず成就せんか。」
(御書 一四七0㌻)
とあって、法と師と信徒の三つが、あるいは法と仏と師との三つが揃(そろ)い、あい応じ、具足することを三事相応と御教示されている。
本抄拝読(法華初心成仏抄)の御文では、
「よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し」(御書 一三一四㌻)
とあり、良き法と良き師匠と良き檀那(信徒)との三つが揃(そろ)い、あい応じた時に祈りが成就すると、三事相応の上から祈りが叶うことを明かされている。
本抄ではこの後、三事の一つ一つについて詳しく説明されているので、御文(御書 一三一三㌻)の意に従って三事を示しておきたい。
本文と順番が異なるが、まず「良き法」については、仏の一代の聖教(しょうぎょう)の中において、仏は法華経を最も第一の法と説かれており、巳説(いせつ)(法華経巳前の諸経)・今説(法華経の序説にあたる無量義経)・当説(とうせつ)(涅槃経)の三説の中において、法華経が第一の法であるが故に、良き法となる旨を明かされている。
今日末法においては、本門寿量品文底の下種の三大秘法であり、この最上第一の妙法をもって御祈念することが、肝要である旨を示されている。
次に「良き師」とは、根本は末法の御本仏、日蓮大聖人であり、また大聖人からの血脈を受け継ぎ門下を統率される代々の御法主上人猊下である。
さらに御法主上人の代官(だいかん)として、私たち法華講員を直接指導して下さる末寺の御住職・御主管、即ち指導教師も僧宝(そうぼう)の意義の上から、良き師と拝していくことが大切である。
その良き師とは、「さほどの世法上の欠点もなく、また少しも人に媚(こ)びへつらうこともなく、僅(わず)かなものでも足(た)ることを知り、慈悲のある僧侶であり、さらにそれに加えて、最為第一(さいいだいいち)と説かれている
経文の意に任せて法華経を受持・読誦し、人にも勧(すす)めて持(たも)たせようのする僧侶は、全ての僧侶の中でも良き第一の法師であると仏は讃められている」と仰せである。
次に大聖人の仰せられる「良き檀那(信徒)」とは、「相手の身分の貴賤(きせん)によって、心や態度を変えたりすることなく、全ての判断を人に依らず、法の道理をもって判断し、一切経の中で、仏の出生の本懐の経典である法華経を持(たも)つ人こそ、
全ての人の中でも良き人、良き信徒である」と御指南されている。
特に良き信徒についてもう少し言及すると、本抄(法華初心成仏抄)に、
「貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして云云」(御書一三一四㌻)
と誡(いまし)められているように、相手の身分や立場や役職などによって、その人に対する思い、言葉、行動を変えてはいけないと説かれている。
これは基本的に、相手がどのような人であろうとも、その相手を貴び、敬い、慈悲の一念をもって接していく、という人間観を築き上げていくことの重要性を説かれたものと拝される。また、
「一切人をば用ひずして」(同 一三一四㌻)
とは、信心していても、私たちはつい利害や損得を計算して、自分にプラスになる人、利益を与えてくれる人に付こうという、俗世間の生命(いのち)をそのまま仏法に持ち込んでくることがある。
この構図は、お互いがお互いを利用し合おうという結びつきになっていることは言うまでもない。このような利害や損得を考慮し、利用し合うなどという世法の人のつながりの中では、仏法の正義と道理を立てていくことはできない。
故に「一切人をば用ひずして」と誡(いまし)められているように、人を頼(たよ)り、人を用いて、仏法の道理に背くことのないように諭(さと)されているのである。
人間は社会的動物である故に、人の集まるところには、様々な力関係が生まれ、人を配下に入れようとする人や、またその配下に入ろうとする人が必ず現れるものである。
いわゆる徒党(ととう)を組もうとするのであるが、信心の組織においては、信心活動の多大な妨(さまた)げとなる偏頗(へんぱ)な徒党は組まないように、お互いに心がけていくべきであろう。
「涅槃経」にも、依法不依人(えほうふえにん)(法に依って人に依らざれ)」との誡めがあるが、公平無私である法の道理を根本として立てていってこそ、講中も正しく発展していくことができるのである。
良き法、即ち末法における寿量品文底下種の三大秘法を信受した良き指導教師と良き信徒とが、心を同じくし、同じ祈りをなすことにより、種々の願いも、さらに広宣流布という大願も成就していくのである。
(中略)
三事相応の原則に従って、僧俗相和(あいわ)して共々に祈り、題目を唱え、活動していこうではないか。
(平成十三年十月号 妙教 信行のポイントより)