法華講組織の目的は広宣流布 本質見据え 共に功徳積む
―はい、全国のすべての講中を2つに分けて考えてみたらどうだろうということを思います。
よい方向、折伏ができていく方向、明るくなる方向に向いている所と、そうでない所の二つです。
そうですね、中間というのはあり得ないんですが、もしも中間があるようなイメージを持っているとしたら、「それは違う。どちらかしかない、肚を決めて変わっていかなければだめですよ」と申し上げたい。
例えば、数だけで見ていて、少し折伏の成果が上がっているから、いい方向に向いているというような表面的な見方でなく、本質的にはどちらを向いているかを厳しく見る。もっとはっきり申し上げると、ごまかしや逃げ道を自ら排することが今、一番やらなければならないことだというふうに思いますね。
-なるほど、中間はないんですね。
今の話をね、「生きている講中」と「死んでいる講中」としたら、もっと判りやすくなると思うのだが、どうだろう。
どういうことかと言うと、中間があるような感覚の人は、本当の意味の組織を知らないんです。では、本当の意味の組織とは何かということですが、組織というのは、目的を持っています。そして、それを遂行しようとするときに、初めて組織という言葉が出てくる。そこに当然、組織は目的と結びついているんです。もし、それが結びついていない
としたら、組織を知らないということです。ただ集まって、みんなの意見を出し合っていけば自然と物事が出来上がってくるように考えているのが、一番危険な形です。
組織を論議するポイントは、その組織は生きているのか、死んでいるのかということ。そして、現れている姿をもって、生きている組織と死んでいる組織とに、はっきり二分されるんですね。
生きている組織は、新たな指令を得れば、そのたびに新しく編成し直して、その目的を達成する方向に向かっていきます。
時に前進を阻害するようないろいろな問題、それは人間関係だとか価値観の違いとか様々でしょうが、そういったものにぶつかることがあっでも、「これは全部、枝葉の問題だ」として、打ち払って前に進んでいきます。
ところがこの枝葉であるいろいろな意見に引っかかってしまうと、ごたごたが始まるんです。そして、目的がどっかに行ってしまう。これを称して、死んでいる組織と言います。死んでいる組織の、枝葉のほうに行ってしまって本質を忘れてしまうことを、綺麗な言葉で言うならば、「理を好む集団になってダメになってしまう」ということですね。
生きている組織のほうだって、そういうことには当然ぶつかるんですよ。しかし、いろいろな意見が出ることは出ても、そういうことは枝葉の問題として払われてしまう。そして、あくまでも主眼とする目的、本質を見失わずに前進していく。
それは今は、平成27年までに50㌫増になることであり、この問題を万難を排して成し遂げるということ。だから、最初はいろいろ言ったりしていた者も、自分の考え方を引っ込めて、全体の進む方向に則った中での、自分がやらなければならないポジションが掴めてくるんです。それを掴めたら、今度は全身全霊でそれに向かって進んでいく。
この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。
―意見や批判を持ったり言ったりすることを間違いとは言わないが、それが大きな動きを止めてしまうような愚癡になってはいけないということでしょうか?
組織ということで言えば、今年より48布教区・地方部となりました。そのすべての講中が、目的を一にしていくことですね。
法華講組織の目的は、源をずっと遡っていくと、戒壇の大御本尊様までいきます。7百50年の間には、戦国時代もくぐらなければなりませんでした。天変地夭もくぐってきています。そのたびに、その対策もしなければならないのですが、その方向にばかり進んでしまうと、広宣流布という主眼を忘れてしまいます。
放っておくと、いつの間にやら「今は折伏より育成が大事だ」
とか、
「信の一字が大事だから信じていれば(折伏しなくても)いい」
などといろいろな理屈がどこからともなく出てくるようになる。
そのときに、このささやく声を取り入れないで、「お前の言うことは間違っているよ。進む方向は広宣流布!」と言う、そのお方が出てこない限りは、法華講組織は生きてこないんです。そこに代々、時の御法主上人猊下がおわしまして、
その方向へと御教導くださるんです。
(大白法 792号 平成22年7月1日号)
―はい、全国のすべての講中を2つに分けて考えてみたらどうだろうということを思います。
よい方向、折伏ができていく方向、明るくなる方向に向いている所と、そうでない所の二つです。
そうですね、中間というのはあり得ないんですが、もしも中間があるようなイメージを持っているとしたら、「それは違う。どちらかしかない、肚を決めて変わっていかなければだめですよ」と申し上げたい。
例えば、数だけで見ていて、少し折伏の成果が上がっているから、いい方向に向いているというような表面的な見方でなく、本質的にはどちらを向いているかを厳しく見る。もっとはっきり申し上げると、ごまかしや逃げ道を自ら排することが今、一番やらなければならないことだというふうに思いますね。
-なるほど、中間はないんですね。
今の話をね、「生きている講中」と「死んでいる講中」としたら、もっと判りやすくなると思うのだが、どうだろう。
どういうことかと言うと、中間があるような感覚の人は、本当の意味の組織を知らないんです。では、本当の意味の組織とは何かということですが、組織というのは、目的を持っています。そして、それを遂行しようとするときに、初めて組織という言葉が出てくる。そこに当然、組織は目的と結びついているんです。もし、それが結びついていない
としたら、組織を知らないということです。ただ集まって、みんなの意見を出し合っていけば自然と物事が出来上がってくるように考えているのが、一番危険な形です。
組織を論議するポイントは、その組織は生きているのか、死んでいるのかということ。そして、現れている姿をもって、生きている組織と死んでいる組織とに、はっきり二分されるんですね。
生きている組織は、新たな指令を得れば、そのたびに新しく編成し直して、その目的を達成する方向に向かっていきます。
時に前進を阻害するようないろいろな問題、それは人間関係だとか価値観の違いとか様々でしょうが、そういったものにぶつかることがあっでも、「これは全部、枝葉の問題だ」として、打ち払って前に進んでいきます。
ところがこの枝葉であるいろいろな意見に引っかかってしまうと、ごたごたが始まるんです。そして、目的がどっかに行ってしまう。これを称して、死んでいる組織と言います。死んでいる組織の、枝葉のほうに行ってしまって本質を忘れてしまうことを、綺麗な言葉で言うならば、「理を好む集団になってダメになってしまう」ということですね。
生きている組織のほうだって、そういうことには当然ぶつかるんですよ。しかし、いろいろな意見が出ることは出ても、そういうことは枝葉の問題として払われてしまう。そして、あくまでも主眼とする目的、本質を見失わずに前進していく。
それは今は、平成27年までに50㌫増になることであり、この問題を万難を排して成し遂げるということ。だから、最初はいろいろ言ったりしていた者も、自分の考え方を引っ込めて、全体の進む方向に則った中での、自分がやらなければならないポジションが掴めてくるんです。それを掴めたら、今度は全身全霊でそれに向かって進んでいく。
この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。この本質が崩れていなければ、講中の誓願が破れることはありません。
―意見や批判を持ったり言ったりすることを間違いとは言わないが、それが大きな動きを止めてしまうような愚癡になってはいけないということでしょうか?
組織ということで言えば、今年より48布教区・地方部となりました。そのすべての講中が、目的を一にしていくことですね。
法華講組織の目的は、源をずっと遡っていくと、戒壇の大御本尊様までいきます。7百50年の間には、戦国時代もくぐらなければなりませんでした。天変地夭もくぐってきています。そのたびに、その対策もしなければならないのですが、その方向にばかり進んでしまうと、広宣流布という主眼を忘れてしまいます。
放っておくと、いつの間にやら「今は折伏より育成が大事だ」
とか、
「信の一字が大事だから信じていれば(折伏しなくても)いい」
などといろいろな理屈がどこからともなく出てくるようになる。
そのときに、このささやく声を取り入れないで、「お前の言うことは間違っているよ。進む方向は広宣流布!」と言う、そのお方が出てこない限りは、法華講組織は生きてこないんです。そこに代々、時の御法主上人猊下がおわしまして、
その方向へと御教導くださるんです。
(大白法 792号 平成22年7月1日号)