言葉には実に不思議な力がある。
私たちは言葉によってやる気を起こしたり、反対にやる気を失ったりすることがあるからだ。
万葉の時代、我が国のことを「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」、つまり言葉の霊妙(れいみょう)な働きによって幸福をもたらす国といわれていた、良い言葉は人を幸いへと導いてくれるのである。
白川静の『字訓』には、「言霊」という言葉の意味として、「ことばには霊があって、ことばとして述べられたことは、その霊のはたらきによって、そのまま実現されるという観念があった」
とあるが、かつては言葉によって激励したり、奮い立たせて人を行動に向かわせる原動力は、言葉に宿る霊の力によると考えられていたのである。
実際には、霊の力というよりも、それは生命(いのち)の奥底に互いに持っている心・魂が言葉となって表れ、他の人の心に響き、心を揺(ゆ)さぶり、あるいは共鳴(きょうめい)させ、決意を促(うなが)し行動へと駆(か)り立てていくものと考えるべきであろう。言葉といっても、そこには口から発せられるものと、文字によって記されるものがあるが、人に大きく影響を与えるのは、断然、口から発せられる言葉である。
なぜなら、口から発する言葉には、ただ思想・感情・意志などを伝達するだけでなく、そこには声の調子や、更には笑顔などの表情があり、尚一層大きな心・魂が加味されて相手に働きかけをしていくことができるからである。
言葉と声と表情の関わり合いについて、アルバート・メーラビアンという学者はおもしろい法則を発表している。(図1)
私たちは言葉によってやる気を起こしたり、反対にやる気を失ったりすることがあるからだ。
万葉の時代、我が国のことを「言霊(ことだま)の幸(さきは)ふ国」、つまり言葉の霊妙(れいみょう)な働きによって幸福をもたらす国といわれていた、良い言葉は人を幸いへと導いてくれるのである。
白川静の『字訓』には、「言霊」という言葉の意味として、「ことばには霊があって、ことばとして述べられたことは、その霊のはたらきによって、そのまま実現されるという観念があった」
とあるが、かつては言葉によって激励したり、奮い立たせて人を行動に向かわせる原動力は、言葉に宿る霊の力によると考えられていたのである。
実際には、霊の力というよりも、それは生命(いのち)の奥底に互いに持っている心・魂が言葉となって表れ、他の人の心に響き、心を揺(ゆ)さぶり、あるいは共鳴(きょうめい)させ、決意を促(うなが)し行動へと駆(か)り立てていくものと考えるべきであろう。言葉といっても、そこには口から発せられるものと、文字によって記されるものがあるが、人に大きく影響を与えるのは、断然、口から発せられる言葉である。
なぜなら、口から発する言葉には、ただ思想・感情・意志などを伝達するだけでなく、そこには声の調子や、更には笑顔などの表情があり、尚一層大きな心・魂が加味されて相手に働きかけをしていくことができるからである。
言葉と声と表情の関わり合いについて、アルバート・メーラビアンという学者はおもしろい法則を発表している。(図1)
(図1)※この記事の以下の内容を図式化したものを追加しました。(本修寺広報部)
それは意志等を伝える言葉と声と表情との全体を合わせて100%とすると、言葉から受ける印象は七%、明るい暗いなどの声の調子から受ける印象は三十八%、そして顔の表情から受ける印象は、なんと五十五%もあるという。
この割合からすると、私たちが他の人に何かを伝えようとした時、あるいは説得しようとした時に、文字のみの手紙や葉書、メール等では、わずか七%しか説得できない伝達できないということになる。
次に電話で話した場合は、言葉の七%に声の三十八%が加算されるので、計四十五%となるが、それでもまだ半分もこちらの意志は伝わらす、説得することができないことになる。
最後に、実際に会って話した場合は、言葉七%、声三十八%、表情五十五%となり、こちらの思いを100%伝えることができるというのである。このように、伝達にしろ、直接会って話をすることが、いかに相手に大きな影響を与えていくかを知ることができる。つまりこの法則は、折伏する場合はもちろん、人を育成していく場合、手紙やメール、電話等よりも、本人に直接会って話をすることがいかに重要であるか、効果が大きいかを教えてくれている。
直接会って話す。あるいはそこから更に進んで、互いに声を掛け合っていくことが、信心を育て、信心の発奮(はっぷん)、継続に繋(つな)がっていくのである。このことについて大聖人は、
「各々互ひに読み聞けまいらせさせ給へ。かゝる浮き世には互ひにつねにい(言)ゐあ(合)わせて、ひまもなく後世(ごせ)ねがわせ給ひ候へ」
(法華行者値難事・御書七二一)
と仰せられている。
これは大聖人のお書きになられた御書等を、皆が集まり、お互いに読み、お互いに聞いて研鑽(けんざん)・修学していくべきことを勧(すす)められたお言葉である。
「互ひにつねにいゐあわせて」とは「お互いにいつも声を掛け合って」との言葉であり、信心を貫いていくことが厳しい世の中であればこそ、お互いに声を掛け合って励まし合い、信心を奮い立たせ、信心の目的である成仏を常に確認し合い、成仏を願って信行に励むよう諭されている。
また御法主上人猊下は、声を掛け合うことの大切な意義について、
『お互いが声を掛け合うことによって、共通の意識と団結が生まれ、それが目標達成へ向けての力となる(取意)』
(大日蓮・平成二〇年二月号)
と仰せられ、単に人の育成に止まらず、組織として目標を達成していくための力となることを御指南されている。
聞法の大事
仏法では、法華円教の修行の位である六即(ろくそく)の中の第二、名字即(みょうじそく)のように、仏法の言語(げんご)・言葉を耳で聞いたり、目で文字を見たりして、理即(りそく)の我が身がもともと仏であり、一切の諸法は皆是れ仏法であると知る位を説いている。この位を平たく言えば、今まで全く仏法に縁のなかった者が、仏の境界に導いてくれる仏や僧侶、同信の徒の善知識(ぜんちしき)に値(あ)って、仏法の教えを言葉で聞き、文字で見て仏法を学び、はじめて信心を起こし、
「こんな自分でも成仏し、幸せな人生を歩んでいくことができる」ことを思い、修行に進んでいこうとする位ということができよう。
教えということについて、天台大師は『法華玄義』で、
「教(きょう)とは、聖人(しょうにん)、下(しも)に披(こうむ)らしむるの言(げん)なり」
(学林版玄義会本上五七)
と述べているように、聖人(仏)が訓戒を垂(た)れ、人を導く言葉の意である。
特に聖人が心に持つものを「法」といい、法が言に顕(あら)われると「教」となるのである。この教は必ず仏の言葉や文字となって示され、衆生はその言葉を通し仏の教えを知り、学ぶことができるのである。
このことについて、例えば禅宗などでは、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教化別伝(きょうけべつでん)」、あるいは「以心伝心(いしんでんしん)」などと立て、仏の教えや仏の悟りは文字で表されるのではなく、仏の言葉以外に心から心を以て別に伝えられるものである、などとしている。
しかしこれは、凡夫にとっては、仏の言を以て悟りや仏の境界を説き示されない限り、悟りの実体を知ることはできない。悟られた能化の立場と迷いの所化(しょけ)の立場を妄(みだ)りに混乱する邪義でしかない。したがって、話し言葉であれ、書いた文字であれ、仏の教えを言語をもって説き示すことは極めて大切なのである。
先程述べた「声かけ」とは、その仏法の教義や信心していく意義、御本尊の功徳、あるいは講中としての誓願(せいがん)等を言葉をもって相手の耳に語りかけ、信心を奮い立たせたり、信心を高めて自行化他の信行ができるように導いていく振る舞いといえる。
同じく教義や功徳を伝える行為であっても、ただ文字で伝えるよりは、伝える側の声や表情を通して心や魂をも込め、相手の心をより強く動かしていく言葉かけの方が効果は大きいことは前に述べた通りである。
翻(ひるがえ)って、法を説く側ではなく、聴聞する未入信者や初心者側からすれば、法華経には「法を聞く」あるいは「経を聞く」の語が数多く説かれている。
これは仏法においては、まず何よりも「聞法」、つまり耳で法を聴聞することが最も肝要であることを示した言葉と言える。
日寛上人は、この聞法が、仏法に縁するばかりでなく、信心を深め仏道修行に精進(しょうじん)し功徳を得ていく上で、いかに重要であるかを次のように御指南されている。
「仏果を成ずることは因行による、因行を励むことは信心による、信心を進むことは法を聞くによるなり、聞かずんば信心生ぜず、信心生ぜずば修行怠(おこた)る。修行を怠れば未来何(いか)なる処に生まれるべしや。仍(よっ)て歩みを運んで聴聞肝要なり」
(寿量品談義・富要一〇ー一八三)
この御指南は、因行の初めとなる聞法により、仏果を成ずる過程を順次示したもので、まとめると概(おおむ)ね
一、寺院に参詣し、御法門の話を聴聞すること。
二、法を聴聞することにより信心が生じてくる(信心が育つ・高まる・深まる・進む)こと。
三、信心が生じてくればそこから修行が実践されるようになること。
四、修行が実践されるようになれば、おのずと仏果(功徳・利益)を成ずること。
となる。
行によって功徳・利益を得れば、そこから御本尊・大聖人の仏法に対する絶対の確信が生まれ、生涯不退転の信行を確立していくことができる。
昨年は、宗史以来の未曾有の折伏成果を収めることができたが、新しく入信された一人ひとりが、自行化他の信行に励み、有為(ゆうい)な広布の人材に育つよう、勤行の実践、御講、唱題会、登山等に粘り強く声を掛けて誘い、聞法から仏果成就の道を自ら歩んで頂けるよう、折伏を行ずると同時に育成にも心を砕(くだ)き、取り組んでいきたいものである。
(妙教 平成24年 4月号)
この割合からすると、私たちが他の人に何かを伝えようとした時、あるいは説得しようとした時に、文字のみの手紙や葉書、メール等では、わずか七%しか説得できない伝達できないということになる。
次に電話で話した場合は、言葉の七%に声の三十八%が加算されるので、計四十五%となるが、それでもまだ半分もこちらの意志は伝わらす、説得することができないことになる。
最後に、実際に会って話した場合は、言葉七%、声三十八%、表情五十五%となり、こちらの思いを100%伝えることができるというのである。このように、伝達にしろ、直接会って話をすることが、いかに相手に大きな影響を与えていくかを知ることができる。つまりこの法則は、折伏する場合はもちろん、人を育成していく場合、手紙やメール、電話等よりも、本人に直接会って話をすることがいかに重要であるか、効果が大きいかを教えてくれている。
直接会って話す。あるいはそこから更に進んで、互いに声を掛け合っていくことが、信心を育て、信心の発奮(はっぷん)、継続に繋(つな)がっていくのである。このことについて大聖人は、
「各々互ひに読み聞けまいらせさせ給へ。かゝる浮き世には互ひにつねにい(言)ゐあ(合)わせて、ひまもなく後世(ごせ)ねがわせ給ひ候へ」
(法華行者値難事・御書七二一)
と仰せられている。
これは大聖人のお書きになられた御書等を、皆が集まり、お互いに読み、お互いに聞いて研鑽(けんざん)・修学していくべきことを勧(すす)められたお言葉である。
「互ひにつねにいゐあわせて」とは「お互いにいつも声を掛け合って」との言葉であり、信心を貫いていくことが厳しい世の中であればこそ、お互いに声を掛け合って励まし合い、信心を奮い立たせ、信心の目的である成仏を常に確認し合い、成仏を願って信行に励むよう諭されている。
また御法主上人猊下は、声を掛け合うことの大切な意義について、
『お互いが声を掛け合うことによって、共通の意識と団結が生まれ、それが目標達成へ向けての力となる(取意)』
(大日蓮・平成二〇年二月号)
と仰せられ、単に人の育成に止まらず、組織として目標を達成していくための力となることを御指南されている。
聞法の大事
仏法では、法華円教の修行の位である六即(ろくそく)の中の第二、名字即(みょうじそく)のように、仏法の言語(げんご)・言葉を耳で聞いたり、目で文字を見たりして、理即(りそく)の我が身がもともと仏であり、一切の諸法は皆是れ仏法であると知る位を説いている。この位を平たく言えば、今まで全く仏法に縁のなかった者が、仏の境界に導いてくれる仏や僧侶、同信の徒の善知識(ぜんちしき)に値(あ)って、仏法の教えを言葉で聞き、文字で見て仏法を学び、はじめて信心を起こし、
「こんな自分でも成仏し、幸せな人生を歩んでいくことができる」ことを思い、修行に進んでいこうとする位ということができよう。
教えということについて、天台大師は『法華玄義』で、
「教(きょう)とは、聖人(しょうにん)、下(しも)に披(こうむ)らしむるの言(げん)なり」
(学林版玄義会本上五七)
と述べているように、聖人(仏)が訓戒を垂(た)れ、人を導く言葉の意である。
特に聖人が心に持つものを「法」といい、法が言に顕(あら)われると「教」となるのである。この教は必ず仏の言葉や文字となって示され、衆生はその言葉を通し仏の教えを知り、学ぶことができるのである。
このことについて、例えば禅宗などでは、「不立文字(ふりゅうもんじ)・教化別伝(きょうけべつでん)」、あるいは「以心伝心(いしんでんしん)」などと立て、仏の教えや仏の悟りは文字で表されるのではなく、仏の言葉以外に心から心を以て別に伝えられるものである、などとしている。
しかしこれは、凡夫にとっては、仏の言を以て悟りや仏の境界を説き示されない限り、悟りの実体を知ることはできない。悟られた能化の立場と迷いの所化(しょけ)の立場を妄(みだ)りに混乱する邪義でしかない。したがって、話し言葉であれ、書いた文字であれ、仏の教えを言語をもって説き示すことは極めて大切なのである。
先程述べた「声かけ」とは、その仏法の教義や信心していく意義、御本尊の功徳、あるいは講中としての誓願(せいがん)等を言葉をもって相手の耳に語りかけ、信心を奮い立たせたり、信心を高めて自行化他の信行ができるように導いていく振る舞いといえる。
同じく教義や功徳を伝える行為であっても、ただ文字で伝えるよりは、伝える側の声や表情を通して心や魂をも込め、相手の心をより強く動かしていく言葉かけの方が効果は大きいことは前に述べた通りである。
翻(ひるがえ)って、法を説く側ではなく、聴聞する未入信者や初心者側からすれば、法華経には「法を聞く」あるいは「経を聞く」の語が数多く説かれている。
これは仏法においては、まず何よりも「聞法」、つまり耳で法を聴聞することが最も肝要であることを示した言葉と言える。
日寛上人は、この聞法が、仏法に縁するばかりでなく、信心を深め仏道修行に精進(しょうじん)し功徳を得ていく上で、いかに重要であるかを次のように御指南されている。
「仏果を成ずることは因行による、因行を励むことは信心による、信心を進むことは法を聞くによるなり、聞かずんば信心生ぜず、信心生ぜずば修行怠(おこた)る。修行を怠れば未来何(いか)なる処に生まれるべしや。仍(よっ)て歩みを運んで聴聞肝要なり」
(寿量品談義・富要一〇ー一八三)
この御指南は、因行の初めとなる聞法により、仏果を成ずる過程を順次示したもので、まとめると概(おおむ)ね
一、寺院に参詣し、御法門の話を聴聞すること。
二、法を聴聞することにより信心が生じてくる(信心が育つ・高まる・深まる・進む)こと。
三、信心が生じてくればそこから修行が実践されるようになること。
四、修行が実践されるようになれば、おのずと仏果(功徳・利益)を成ずること。
となる。
行によって功徳・利益を得れば、そこから御本尊・大聖人の仏法に対する絶対の確信が生まれ、生涯不退転の信行を確立していくことができる。
昨年は、宗史以来の未曾有の折伏成果を収めることができたが、新しく入信された一人ひとりが、自行化他の信行に励み、有為(ゆうい)な広布の人材に育つよう、勤行の実践、御講、唱題会、登山等に粘り強く声を掛けて誘い、聞法から仏果成就の道を自ら歩んで頂けるよう、折伏を行ずると同時に育成にも心を砕(くだ)き、取り組んでいきたいものである。
(妙教 平成24年 4月号)