(1)日本における小乗・法華迹門の戒壇
例えば、御承知のように、伝教大師は迹門の戒壇を建立(こんりゅう)しようとして勅許(ちょっきょ)を願ったけれども、当時は、国主である天皇の許しがなければ、そういう戒壇を建てることができなかったのであり、したがって、南部六宗の反対に遭(あ)って、在世中には結局、建立できなかった。そして伝教大師の滅後七日を経て嵯峨(さが)天皇より勅許が下り、天長四(八二七)年、第五十三代淳和(じゅんな)天皇の時に、伝教大師の弟子の義真が叡山(えいざん)の座主として、やっと大乗円頓(えんどん)戒壇を建立できたということであります。
それより前にできた小乗の三戒壇は、第四十五代聖武天皇の勅によって東大寺の戒壇が建立され、また天平宝字五(七六一)年に、第四十七代淳仁(じゅんにん)天皇の勅によって建立された下野(しもつけ)の薬師寺と筑紫(つくし)の観世音寺(かんぜおんじ)の戒壇、これを天下の三戒壇と言ったわけです。もちろん、これは一番最初に日本国に出来た、国で定めた戒壇であります。
(2) 『三大秘法抄』と『日蓮一期付属書』
さて、大聖人様が戒壇ということをはっきりおっしゃったのは『三大秘法抄』の、
「戒壇とは、王法仏法に冥(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持(たも)ちて」云々(御書 一五九五㌻)
という有名な御文です。この所に「王法仏法に冥じ、仏法王法に合」するというところから王法と仏法の関係が、はっきり述べられておるわけです。
もう一つは『日蓮一期弘法付属書(いちごぐほうふぞくしょ)』で、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨(びゃくれんあじゃり)日興に之(これ)を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
(同 一六七五㌻)
というなかに「国主」という語ああるのですが、今まで言ったように、小乗の戒壇、大乗円頓の戒壇は国主の、つまりその当時としての国主は天皇だったわけですから、天皇の勅命があって初めて建てることができたという意味があります。
鎌倉時代には、やはりそのような在り方の上から当然、戒壇を勝手に造るということはできない意味もあったし、また当時は、天皇だけが政治をするのではなく、実質的には鎌倉幕府というのが存在したのです。その上から、当時は将軍の御教書(みぎょうしょ)というような形もあったようでありますが、『三大秘法抄』においては、
「勅宣(ちょくせん)並びに御教書」(同 一五九五㌻)
ということをおっしゃっているわけです。要するに、天皇が定めているところの法の処置乃至(ないし)、裁断という意味を含めての王法ということ、あるいは国主ということをおっしゃっておると思うのであります。
(3)憲法における主権の変遷と信教の立場
それから時代がだんだんと移り変わってきて、明治維新になったのです。そして明治二十二年(一八八九)年二月十一日に大日本帝国憲法が発布されたのでありますが、これは欽定(きんてい)憲法、いわゆる天皇の命令によって決められた憲法なのです。徳川時代には幕府が決めたことがあり、またさらに藩が自分に都合のよいような意味でその国ごとに法令を作って、色々な実情において国民生活は縛られていた面が非常に多かったわけであります。しかし明治に入って、いわゆる自由民権という考え方も色々あり、自由ということが非常にはっきりしたわけです。
まず、明治憲法では居住と移転の自由というのがあります。これは、どこに住んでもよいということで、それ以前は、どこかに勝手に住むことは無宿人か、あるいは旅人のような者でなければできなかったということもあります。また信書の秘密の自由があり、所有権の自由があります。
そして一番大事なのが、信教の自由ということが明治欽定憲法では示されておるのです。何を信じてもよい。昔は寺請(てらうけ)制度というのがあり、その寺ごとに人別帳があるものだから、そこから離れて勝手に宗旨を変えることが不自由だったのです。そういうような意味からも、明治の憲法において信教の自由が謳(うた)われたというところに、「自分は今まで念仏を信仰したけれども、今度は南無妙法蓮華経を信仰しよう」ということが自由にできるようになったのです。そういう点では、明治の憲法によい意味があったわけです。
故に、法難ということのなくなったのです。徳川時代には、宗門でもたくさんの法難がありました。これはみんな、信教の自由がそれぞれの藩のなかにおいて閉ざされていたということから来ているのです。
そのほかにも言論の自由、著作の自由、印刷発行の自由、集会の自由、結社の自由と、みんなも知っているだろうけれども、こういう自由が欽定憲法においてはっきり示されて、明治以降、民権の意味がある程度、謳われたわけであります。
そして戦後の日本国憲法、いわゆる新憲法が昭和二十一年(一九四六)年十一月三日に公布されました。この時に改正された新憲法と明治憲法との一番違うところというのは、明治憲法では天皇主権であり、国民に自由はあったけれども、あくまで天皇に主権があるという次第でありました。ところが新憲法のほうでは、国民に主権があるということになったのです。そこに大きな違いがある。
例えば、御承知のように、伝教大師は迹門の戒壇を建立(こんりゅう)しようとして勅許(ちょっきょ)を願ったけれども、当時は、国主である天皇の許しがなければ、そういう戒壇を建てることができなかったのであり、したがって、南部六宗の反対に遭(あ)って、在世中には結局、建立できなかった。そして伝教大師の滅後七日を経て嵯峨(さが)天皇より勅許が下り、天長四(八二七)年、第五十三代淳和(じゅんな)天皇の時に、伝教大師の弟子の義真が叡山(えいざん)の座主として、やっと大乗円頓(えんどん)戒壇を建立できたということであります。
それより前にできた小乗の三戒壇は、第四十五代聖武天皇の勅によって東大寺の戒壇が建立され、また天平宝字五(七六一)年に、第四十七代淳仁(じゅんにん)天皇の勅によって建立された下野(しもつけ)の薬師寺と筑紫(つくし)の観世音寺(かんぜおんじ)の戒壇、これを天下の三戒壇と言ったわけです。もちろん、これは一番最初に日本国に出来た、国で定めた戒壇であります。
(2) 『三大秘法抄』と『日蓮一期付属書』
さて、大聖人様が戒壇ということをはっきりおっしゃったのは『三大秘法抄』の、
「戒壇とは、王法仏法に冥(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持(たも)ちて」云々(御書 一五九五㌻)
という有名な御文です。この所に「王法仏法に冥じ、仏法王法に合」するというところから王法と仏法の関係が、はっきり述べられておるわけです。
もう一つは『日蓮一期弘法付属書(いちごぐほうふぞくしょ)』で、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨(びゃくれんあじゃり)日興に之(これ)を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此(こ)の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」
(同 一六七五㌻)
というなかに「国主」という語ああるのですが、今まで言ったように、小乗の戒壇、大乗円頓の戒壇は国主の、つまりその当時としての国主は天皇だったわけですから、天皇の勅命があって初めて建てることができたという意味があります。
鎌倉時代には、やはりそのような在り方の上から当然、戒壇を勝手に造るということはできない意味もあったし、また当時は、天皇だけが政治をするのではなく、実質的には鎌倉幕府というのが存在したのです。その上から、当時は将軍の御教書(みぎょうしょ)というような形もあったようでありますが、『三大秘法抄』においては、
「勅宣(ちょくせん)並びに御教書」(同 一五九五㌻)
ということをおっしゃっているわけです。要するに、天皇が定めているところの法の処置乃至(ないし)、裁断という意味を含めての王法ということ、あるいは国主ということをおっしゃっておると思うのであります。
(3)憲法における主権の変遷と信教の立場
それから時代がだんだんと移り変わってきて、明治維新になったのです。そして明治二十二年(一八八九)年二月十一日に大日本帝国憲法が発布されたのでありますが、これは欽定(きんてい)憲法、いわゆる天皇の命令によって決められた憲法なのです。徳川時代には幕府が決めたことがあり、またさらに藩が自分に都合のよいような意味でその国ごとに法令を作って、色々な実情において国民生活は縛られていた面が非常に多かったわけであります。しかし明治に入って、いわゆる自由民権という考え方も色々あり、自由ということが非常にはっきりしたわけです。
まず、明治憲法では居住と移転の自由というのがあります。これは、どこに住んでもよいということで、それ以前は、どこかに勝手に住むことは無宿人か、あるいは旅人のような者でなければできなかったということもあります。また信書の秘密の自由があり、所有権の自由があります。
そして一番大事なのが、信教の自由ということが明治欽定憲法では示されておるのです。何を信じてもよい。昔は寺請(てらうけ)制度というのがあり、その寺ごとに人別帳があるものだから、そこから離れて勝手に宗旨を変えることが不自由だったのです。そういうような意味からも、明治の憲法において信教の自由が謳(うた)われたというところに、「自分は今まで念仏を信仰したけれども、今度は南無妙法蓮華経を信仰しよう」ということが自由にできるようになったのです。そういう点では、明治の憲法によい意味があったわけです。
故に、法難ということのなくなったのです。徳川時代には、宗門でもたくさんの法難がありました。これはみんな、信教の自由がそれぞれの藩のなかにおいて閉ざされていたということから来ているのです。
そのほかにも言論の自由、著作の自由、印刷発行の自由、集会の自由、結社の自由と、みんなも知っているだろうけれども、こういう自由が欽定憲法においてはっきり示されて、明治以降、民権の意味がある程度、謳われたわけであります。
そして戦後の日本国憲法、いわゆる新憲法が昭和二十一年(一九四六)年十一月三日に公布されました。この時に改正された新憲法と明治憲法との一番違うところというのは、明治憲法では天皇主権であり、国民に自由はあったけれども、あくまで天皇に主権があるという次第でありました。ところが新憲法のほうでは、国民に主権があるということになったのです。そこに大きな違いがある。