(1)成り立ちの背景
さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この「国立戒壇」という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかもしれません。
実際にはならなかったので、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことになったかもしれないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。
言えば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰(かいき)妙法が日本国に行える可能性はあった。
そこで、これを言ったのが「国立戒壇」という語であります。
これを、浅井昭衛が率いるところの妙信講、現在の顕正会においては、徹底して「国立戒壇」を言っているのです。
彼らは絶対に「国立戒壇」でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。
そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。
(2)明治時代以降
この「国立戒壇」という名称を、総本山第六十六世日達上人も、この問題が起こってからずいぶんたくさん、あらゆる機会に御指南あそばされましたが、要するに大聖人様の御書のなかに、直接に「国立戒壇」という語はどこにもないのです。ただ最後の『一期弘法抄』において、
「国主此の法をたてらるれば」(御書 一六七五㌻)
という御文があります。この「国主」の語には人格的な意味があるが、「国」の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、国が立てるというのと、国主が立てるということは、実際には意味が違ってくるのです。
むしろ御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。
まして、宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もいないのです。
今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。
(3)田中智学による提唱
これは要するに、明治十四年四月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て、在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚(せんよう)しようとしたわけです。
そこで同三十六年に講義をした「本化抄宗式目」というのがあり、そのなかに「宗旨三秘」を説くなかの「第六科 戒壇の事理」という内容があるのです。その第一項が「即是道場壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の意義を取ったのでしょう。
それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。(B)
そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詣(たいしょう)が渙発(かんぱつ)されると言うのです。
天皇の勅令が発せられると一国が回帰になる。つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。しかも正教一致であると標榜(ひょうぼう)しておるのであります。さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。
また「国立」という語も、明治維新後、日本の国体の尊厳意識と惟神(かんながら)的国家思想が鼓吹(こすい)されて盛んになったことに付随し、発生したもので、明治より前には国が設立し維持管理するという着想はなかったと思われます。そういう意味から、国柱会が初めて「国立戒壇」という語を言い出したわけであります。
(B)田中智学「妙宗式目講義録」 四-二六三七~二六五二㌻)
さて、こういうことが今まで宗門のなかで色々と論議されてきた戒壇に関する考え方に、非常に大きな影響を与えておるのです。すなわち「国立戒壇」という語がありますが、この「国立戒壇」という考え方は天皇主権という明治憲法が背景になっているのであります。天皇主権ですから、もし天皇がその気になって、私はこの信仰をするということになれば、国教にすることだって可能だったかもしれません。
実際にはならなかったので、そういうことになったときに、どういうようなことが起こるか判りませんが、あるいはずいぶん反対も起こり、大変なことになったかもしれないけれども、一往、制度の上では天皇主権だから、それができないとは言えないのです。
言えば、できる可能性が充分あったわけだから、そういうことのなかから、天皇の法華信仰によって皆帰(かいき)妙法が日本国に行える可能性はあった。
そこで、これを言ったのが「国立戒壇」という語であります。
これを、浅井昭衛が率いるところの妙信講、現在の顕正会においては、徹底して「国立戒壇」を言っているのです。
彼らは絶対に「国立戒壇」でなければ、大聖人様の仏法に照らして間違っているのだと言うのです。
そこで、こういうことは若い人も割に知らない意味もあるのではないかと思い、今回、これについて話をしようと思ったのであります。
(2)明治時代以降
この「国立戒壇」という名称を、総本山第六十六世日達上人も、この問題が起こってからずいぶんたくさん、あらゆる機会に御指南あそばされましたが、要するに大聖人様の御書のなかに、直接に「国立戒壇」という語はどこにもないのです。ただ最後の『一期弘法抄』において、
「国主此の法をたてらるれば」(御書 一六七五㌻)
という御文があります。この「国主」の語には人格的な意味があるが、「国」の上から人格的な意味を示すと、結局、天皇になるのであり、国が立てるというのと、国主が立てるということは、実際には意味が違ってくるのです。
むしろ御文から拝するならば、「国立」でなく「国主立」と言うほうが、内容的には適切ではないかという意味もあります。
まして、宗門の御先師の方々が大聖人様の三大秘法の御法門について色々な面から述べられておるけれども、「国立」という語をおっしゃった方は、明治以前は一人もいないのです。
今も文庫に御先師の文献がたくさんあるけれども、どこを探しても、御先師が「国立」ということをおっしゃっておる文はありません。
(3)田中智学による提唱
これは要するに、明治十四年四月に田中智学が国柱会の元となる結社を作ったのですが、これが日蓮宗から出て、在家仏教的な形から大聖人様の仏法の一分を宣揚(せんよう)しようとしたわけです。
そこで同三十六年に講義をした「本化抄宗式目」というのがあり、そのなかに「宗旨三秘」を説くなかの「第六科 戒壇の事理」という内容があるのです。その第一項が「即是道場壇」で、第二項には「勅命国立事壇」というのがあって、理壇と事壇、いわゆる事壇のほうは「事の戒法」と言われるところの『三大秘法抄』の意義を取ったのでしょう。
それが勅命であり、国立戒壇だということを初めて言ったのです。(B)
そして、そこには事壇の出来る条件として、まず大詣(たいしょう)が渙発(かんぱつ)されると言うのです。
天皇の勅令が発せられると一国が回帰になる。つまり、ありとあらゆる宗旨がいっぱいあるけれども、この意見からするならば、一国がことごとく妙法に帰する。しかも正教一致であると標榜(ひょうぼう)しておるのであります。さらに国家の統一を中心として、その一大勢力を作って世界の思想・宗教を妙法化せしめるということを言っておるのです。
また「国立」という語も、明治維新後、日本の国体の尊厳意識と惟神(かんながら)的国家思想が鼓吹(こすい)されて盛んになったことに付随し、発生したもので、明治より前には国が設立し維持管理するという着想はなかったと思われます。そういう意味から、国柱会が初めて「国立戒壇」という語を言い出したわけであります。
(B)田中智学「妙宗式目講義録」 四-二六三七~二六五二㌻)