ところで、実際の建物として正本堂を建立する意思を表明したのは池田大作であります。池田は昭和三十四年一月一日に、
「国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より、正本堂へお出ましになることは必定と思う」(大白蓮華 昭和三四年一月号 一〇㌻)
と述べています。
なお、池田の過去の日記には、昭和三十二年十月十二日の、
「広布の総仕上げの、第一歩たる、正本堂」(若き日の日記 四 ー 五四㌻)
との記述、翌三十三年七月三十一日の、「七年後・・・・大客殿建立。また七年後・・・正本堂の建設」(同 五 ー 三五㌻)
との記述があり、これが本当なら、池田が正本堂と述べた初出となります。
ただ、実際にははっきりと発言したのは先の昭和三十四年の一月一日で、次に昭和三十五年の四月四日に、戸田氏の遺言で正本堂を造れと言われたということを池田が言っている次第であります。(35)
その直後の五月三日には池田が第三代会長に就任しています。
なお、同三十七年の九月一日に、学会の幹部で森田一哉という者が、当時の宗門の庶務部長であった早瀬道應師(観妙院日慈上人)に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。
その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話すことではない」というような意味の返答をされています。(36)
これは当然のことであります。つまり、このころ学会の幹部たちは正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったと思われます。
そして昭和三十九年に大客殿が出来たのですが、その年の五月三日に池田大作が、次の七年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言しています。(37)
つまり、あとの七年ということは昭和四十六年になるわけで、それを目指すと言っているのです。
それから、昭和三十九年五月二十八日付の『聖教新聞』には龍年光(りゅうとしみつ)氏(※のちに法華講員となった)の話のなかに、
「(池田)先生は『(中略)今度の正本堂は、いよいよ本門戒壇となるのですから、その御供養を真剣にした人は成仏疑いない』とおっしゃっております」
とあり、また辻武寿も昭和四十年一月度の本部幹部会で、
「正本堂は御影堂の後ろあたりに建てられ、大御本尊様がお出ましになり、実質上の戒壇の建立になるとうかがっております」
(聖教新聞 昭和四〇年一月二六日付)
と述べています、このように学会のなかでは、すでに具体的な建物としての正本堂の建立が本門の戒壇の建立となるという話が始まっていたのです。
ところが、昭和四十年の二月十六日に第一回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は公には正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言である
ということも言っているけれども、この点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。そのようなことで、正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、
「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮 昭和四〇年三月号九㌻)
と、「正本堂」という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。
ちなみに、日達上人ははこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を十二回ほどもおっしゃっているのです。
そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。だが学会では、日達上人が第一回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるのかと思うのです。
例えば、そのお言葉のなかで、
「まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁(あかつき)をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇(しゅみだん)は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます」(同 一一㌻)
とおっしゃっています。これは、正本堂が完成してもまだ広宣流布の達成ではなく、御開扉は内拝であるということです。また、
「将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば」(同 一二㌻)
ともおっしゃています。正本堂ができたとしてもいまだ御遺命の達成ではなく、将来の「大正本堂」こそが本門寺の戒壇であり御遺命の戒壇であると仰せられているのです。
このように色々な意味のことをおっしゃているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。
そして、それまでの間、自ら先に「正本堂」ということをおっしゃってはいない、そういう在り方があったわけであります。
こうして、初めは広布の事相に約した御遺命の本門の戒壇義の上から使用されていた「正本堂」という言葉が、その後の広布の進展と池田の発言により、次第に具体的な建物の名称として使われるようになった流れがあったのです。
さらにこれ以後は、宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無数に出てくるのであります。
ですから、本門戒壇の本義としての「正本堂」と、あの建物としての「正本堂」をきちんと立て分けて認識しておくことも必要なのです。
(35)池田大作 聖教新聞 昭和三五年四月八日付
(36)早瀬道應・森田一哉「座談会 総本山大石寺の今と昔」大白蓮華 昭和三七年九月号 四一㌻
(37)池田大作 聖教新聞 昭和三九年五月五日付
「国立戒壇建立の際には、大御本尊様が奉安殿より、正本堂へお出ましになることは必定と思う」(大白蓮華 昭和三四年一月号 一〇㌻)
と述べています。
なお、池田の過去の日記には、昭和三十二年十月十二日の、
「広布の総仕上げの、第一歩たる、正本堂」(若き日の日記 四 ー 五四㌻)
との記述、翌三十三年七月三十一日の、「七年後・・・・大客殿建立。また七年後・・・正本堂の建設」(同 五 ー 三五㌻)
との記述があり、これが本当なら、池田が正本堂と述べた初出となります。
ただ、実際にははっきりと発言したのは先の昭和三十四年の一月一日で、次に昭和三十五年の四月四日に、戸田氏の遺言で正本堂を造れと言われたということを池田が言っている次第であります。(35)
その直後の五月三日には池田が第三代会長に就任しています。
なお、同三十七年の九月一日に、学会の幹部で森田一哉という者が、当時の宗門の庶務部長であった早瀬道應師(観妙院日慈上人)に、正本堂とは一体どういうことですかと聞いているのです。
その時に早瀬庶務部長は「これはあくまで御法主上人猊下の御胸中におわしますことである。我々が簡単に話すことではない」というような意味の返答をされています。(36)
これは当然のことであります。つまり、このころ学会の幹部たちは正本堂の名称について、あまりはっきりしていなかったと思われます。
そして昭和三十九年に大客殿が出来たのですが、その年の五月三日に池田大作が、次の七年間で正本堂を建てよというのが戸田氏の遺言だと発言しています。(37)
つまり、あとの七年ということは昭和四十六年になるわけで、それを目指すと言っているのです。
それから、昭和三十九年五月二十八日付の『聖教新聞』には龍年光(りゅうとしみつ)氏(※のちに法華講員となった)の話のなかに、
「(池田)先生は『(中略)今度の正本堂は、いよいよ本門戒壇となるのですから、その御供養を真剣にした人は成仏疑いない』とおっしゃっております」
とあり、また辻武寿も昭和四十年一月度の本部幹部会で、
「正本堂は御影堂の後ろあたりに建てられ、大御本尊様がお出ましになり、実質上の戒壇の建立になるとうかがっております」
(聖教新聞 昭和四〇年一月二六日付)
と述べています、このように学会のなかでは、すでに具体的な建物としての正本堂の建立が本門の戒壇の建立となるという話が始まっていたのです。
ところが、昭和四十年の二月十六日に第一回の正本堂建設委員会があったのですが、それまでの間、日達上人は公には正本堂ということを全然おっしゃっていないのです。また、この会合でも、池田が色々なことを言い、戸田氏の遺言である
ということも言っているけれども、この点については非常に慎重を期せられたと思うのであります。そのようなことで、正本堂建設委員会の挨拶のなかで、日達上人は、
「池田会長の意志により、正本堂寄進のお話がありましたが、心から喜んでそのご寄進を受けたいと思います」(大日蓮 昭和四〇年三月号九㌻)
と、「正本堂」という言葉を初めて使われて、しかもそれを寄進すると言うから受けると言われたのです。このお言葉は、そのあとずっと長い文が続くのだけれども、今は省略します。
ちなみに、日達上人ははこの挨拶のなかで、「正本堂」という言葉を十二回ほどもおっしゃっているのです。
そして、正本堂の寄進を受けるという意味から、正本堂の色々な在り方を初めて述べられておるわけだが、今この御文を拝してみても、この時に正本堂が大聖人様の御遺命の戒壇であるというような、はっきりとした意義を示すお言葉があったとは、私には思えない。だが学会では、日達上人が第一回正本堂建設委員会で、正本堂が実質的な戒壇だということをおっしゃったと言っているのです。しかし、あの文を拝すると、はたしてそこまで言えるのかと思うのです。
例えば、そのお言葉のなかで、
「まだ謗法の人が多いので、広宣流布の暁(あかつき)をもって公開申し上げるのであります。ゆえに正本堂とはいっても、おしまいしてある意義から、御開扉等の仕方はいままでと同じであります。したがって形式のうえからいっても、正本堂の中でも須弥壇(しゅみだん)は、蔵の中に安置申し上げる形になると思うのでございます」(同 一一㌻)
とおっしゃっています。これは、正本堂が完成してもまだ広宣流布の達成ではなく、御開扉は内拝であるということです。また、
「将来もっと大きく考えて、この地に大正本堂ができたならば」(同 一二㌻)
ともおっしゃています。正本堂ができたとしてもいまだ御遺命の達成ではなく、将来の「大正本堂」こそが本門寺の戒壇であり御遺命の戒壇であると仰せられているのです。
このように色々な意味のことをおっしゃているのですが、とにかく、日達上人が正本堂という名称をはっきり示されたのは、正本堂を寄進したいという池田の言葉を受ける形でおっしゃったように拝せられるのです。
そして、それまでの間、自ら先に「正本堂」ということをおっしゃってはいない、そういう在り方があったわけであります。
こうして、初めは広布の事相に約した御遺命の本門の戒壇義の上から使用されていた「正本堂」という言葉が、その後の広布の進展と池田の発言により、次第に具体的な建物の名称として使われるようになった流れがあったのです。
さらにこれ以後は、宗門のあらゆる所で、色々な文献、色々な発言に無数に出てくるのであります。
ですから、本門戒壇の本義としての「正本堂」と、あの建物としての「正本堂」をきちんと立て分けて認識しておくことも必要なのです。
(35)池田大作 聖教新聞 昭和三五年四月八日付
(36)早瀬道應・森田一哉「座談会 総本山大石寺の今と昔」大白蓮華 昭和三七年九月号 四一㌻
(37)池田大作 聖教新聞 昭和三九年五月五日付