さて、正本堂はすでに解体されているけれども、やはりこれまでの経過のうち、一つの流れとしてあるので触れたいと思います。皆さん、正本堂の名称は一体どこから来ておると思いますか。
これは、まず『百六箇抄』に、
「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書 一六九九㌻)
という御文がある。この御指南が、宗門において戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。
これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。(23)叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのです。
根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓(えんどん)の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。
ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが
『百六箇抄』にあるのであります。
けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。どこで正が付いたかというと、宗門の文献においては、昭和三十年の十月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。(33)
これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤(せつえん)録』というのを著して、宗門の在り方などを色々と間違って書いたのです。そのなかでは、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと
誤解して言っております。つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章(※『初心者への指針 高田聖泉氏の「興尊雪冤」の妄説を破す』)
のなかに、
「今日蓮正宗で申してをる戒壇の御本尊とは、本門寺の正本堂に安置し奉る御本尊である」(日淳上人全集下 一四五六㌻)
と、初めて「本門寺の正本堂」という言葉が出てくるのです。これは明らかに広布の事相に約してのものであります。
そこで私が思うには、日寛上人が『立正安国論』の「立正」の両字に「三箇の秘法(三大秘法)を含む」と言われておるように、「正」の字を本門の戒壇としてみたとき、「正」とは「一の止まる所」、すなわち閻浮提第一の本尊、
本門の戒壇の大御本尊が止住するという意義が拝されます。また先程の「富士山本門寺の本堂なり」という根本の御教示から、日淳上人は、本堂にはそのまま正しい本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであるとお考え
になり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。
それから、戸田城聖氏の著述のなかで、正本堂とおいうことは一カ所も出てこないのですが、昭和二十八年五月十日付けの『聖教新聞』の「名字の言」、昭和三十年五月十五日付けの『聖教新聞』の「寸鉄」、昭和三十年十月九日付けの『聖教新聞』の
「名字の言」には、「正本堂」と記されているのです。これは、おそらく当時、よく日淳上人より御教導を賜っていた戸田城聖氏が、その使命感から広布を実現したいとの志を持って記事にしたものではないかと思われます。
このように日淳上人の仰せや、当時の『聖教新聞』に見える「正本堂」は、あくまで未来広宣流布の暁の本門寺の戒壇のことなのであります。
また、日淳上人のお言葉(34)のなかで、戸田城聖氏の話として、正本堂は御影堂の後ろに建立したい、もしなんだったら地下道を造ってもよいのではないか、などと日達上人に話されたことを仰せられています。そのことが事実上、具体化されなかったこと
も述べられていますが、これも当時の状況を考えますと、戸田氏の生前の話は、御先師の御指南を拝しつつ奉安殿建立の前後に、一天広布を見据えた未来の展望を話したものではないかと思うのであります。
(32)日淳上人 「日蓮大聖人の教義」 大日蓮 昭和二五年一〇月号 二㌻
日淳上人全集下 九八三㌻
日淳上人『初心者への指針 高田聖泉氏の「興尊雪冤」の妄説を破す』
二一、二七、四六㌻
(34)日達上人「第一回正本堂建設委員会」日淳上人全集下 一四五六、一四六三、一四八四㌻
大日蓮 昭和四〇年三月号 九~一二㌻
日達上人全集 一 - 三九二~三九五㌻
これは、まず『百六箇抄』に、
「下種の弘通戒壇実勝の本迹 三箇の秘法建立の勝地は富士山本門寺の本堂なり」(御書 一六九九㌻)
という御文がある。この御指南が、宗門において戒壇建立に関する一つの基本をなしておると思うのです。
これは日淳上人や日達上人の御指南もありましたが、叡山とは全く違っておる意味があるのです。(23)叡山の場合は根本中堂というのが中心にあり、あれが本堂で、戒壇堂は別なのです。
根本中堂よりもずっと小さいもので、それが僧侶が受戒する所であります。南都の小乗の戒壇に対する大乗円頓(えんどん)の戒壇と言っても、そういう意味での特別な戒壇堂というのがあったのです。
ところが、この『百六箇抄』の御文からすれば、「三箇の秘法」だから、これは戒壇も当然、含むわけです。また、その戒壇は「富士山本門寺の本堂なり」ということだから、本堂がそのまま戒壇であるということ、要するに、これは事の戒法ということがそのまま戒壇の意義を持つことの上からも、根本の御本尊様がおわしますところの本堂がそのまま戒壇の堂であるということです。それが「富士山本門寺の本堂なり」という御指南で、これが
『百六箇抄』にあるのであります。
けれども、これはまだ本堂であって「正」が付いていないのです。どこで正が付いたかというと、宗門の文献においては、昭和三十年の十月に日淳上人がおっしゃられたのが初めだと思うのです。(33)
これは当時、高田聖泉という人が『興尊雪冤(せつえん)録』というのを著して、宗門の在り方などを色々と間違って書いたのです。そのなかでは、叡山の在り方を中心に考えたのだろうが、あくまで戒壇ということからすれば戒壇院だと
誤解して言っております。つまり先程言った、直ちに本堂という考え方がないから、そのように考えたと思うのですが、そういう意味で日淳上人がこの『興尊雪冤録』を破折している文章(※『初心者への指針 高田聖泉氏の「興尊雪冤」の妄説を破す』)
のなかに、
「今日蓮正宗で申してをる戒壇の御本尊とは、本門寺の正本堂に安置し奉る御本尊である」(日淳上人全集下 一四五六㌻)
と、初めて「本門寺の正本堂」という言葉が出てくるのです。これは明らかに広布の事相に約してのものであります。
そこで私が思うには、日寛上人が『立正安国論』の「立正」の両字に「三箇の秘法(三大秘法)を含む」と言われておるように、「正」の字を本門の戒壇としてみたとき、「正」とは「一の止まる所」、すなわち閻浮提第一の本尊、
本門の戒壇の大御本尊が止住するという意義が拝されます。また先程の「富士山本門寺の本堂なり」という根本の御教示から、日淳上人は、本堂にはそのまま正しい本尊を安置するという上において「正」という字を付けるべきであるとお考え
になり、正本堂という名称としてお示しになったのが一番最初だと思われるのであります。
それから、戸田城聖氏の著述のなかで、正本堂とおいうことは一カ所も出てこないのですが、昭和二十八年五月十日付けの『聖教新聞』の「名字の言」、昭和三十年五月十五日付けの『聖教新聞』の「寸鉄」、昭和三十年十月九日付けの『聖教新聞』の
「名字の言」には、「正本堂」と記されているのです。これは、おそらく当時、よく日淳上人より御教導を賜っていた戸田城聖氏が、その使命感から広布を実現したいとの志を持って記事にしたものではないかと思われます。
このように日淳上人の仰せや、当時の『聖教新聞』に見える「正本堂」は、あくまで未来広宣流布の暁の本門寺の戒壇のことなのであります。
また、日淳上人のお言葉(34)のなかで、戸田城聖氏の話として、正本堂は御影堂の後ろに建立したい、もしなんだったら地下道を造ってもよいのではないか、などと日達上人に話されたことを仰せられています。そのことが事実上、具体化されなかったこと
も述べられていますが、これも当時の状況を考えますと、戸田氏の生前の話は、御先師の御指南を拝しつつ奉安殿建立の前後に、一天広布を見据えた未来の展望を話したものではないかと思うのであります。
(32)日淳上人 「日蓮大聖人の教義」 大日蓮 昭和二五年一〇月号 二㌻
日淳上人全集下 九八三㌻
日淳上人『初心者への指針 高田聖泉氏の「興尊雪冤」の妄説を破す』
二一、二七、四六㌻
(34)日達上人「第一回正本堂建設委員会」日淳上人全集下 一四五六、一四六三、一四八四㌻
大日蓮 昭和四〇年三月号 九~一二㌻
日達上人全集 一 - 三九二~三九五㌻