それでは我が宗門でも「国立戒壇」ということを言っていたかというと、国柱会の田中智学よりかなりあとで、そのような表現をされているのです。つまり明治に田中智学が言い出しました。しかし、総本山第五十六世日應上人の文中には拝することができないと思われます。
また、総本山第五十八世日柱上人が当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかにも見当たらないのです。
これは、大正後期から昭和にかけて出てくるのです。このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。『富士宗学要集』(七ー 一五五~三〇五㌻)には、その横浜問答の顛末(てんまつ)が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。ずいぶん往復の問答があるのです。私も若い頃に読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れていないのです。
けれども、それからあとに、また他門との問答があったのです。その問答のなかで「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」
という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の大御本尊を安置しなければならない」
ということを述べて、その論議の時に向こうが「国立戒壇」ということを言ったわけなのです。その論議においては「国立戒壇」という語に主眼があったのではなく、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使ったものを、こちらも使ってしまったわけです。そういうことから、宗門のなかでも「国立戒壇」という名称が出てきたわけであります。(9)
そこで、少なくとも昭和二十年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。したがって「国立戒壇」ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。
そのような状況のなかで、「国立戒壇」ということは、宗門では昭和二年に、総本山第六十五世日淳上人が二十八歳の時におっしゃっております。(10)
だから当然、御登座なさるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず「国立戒壇」ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で「国立戒壇」という言葉を使ったというようなことだと思われます。
また、日亨上人は大正十一(一九二二)年に著された『日蓮正宗綱要(11)』と昭和四年の『富士大石寺案内(12)』において、国立戒壇ということをおっしゃっております。いずれも戦前ですから当然、欽定憲法における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。
(9)『国立戒壇論の誤りについて』七~九㌻
大日蓮 昭和四十七年七月号 三三~三五㌻ 参照
(10)日淳上人「富士一跡存知事の文に就いて」 大日蓮 昭和二年七月号 三〇、三二㌻
日淳上人全集下 一二〇八、一二一一㌻
(11)日亨上人『日蓮正宗綱要』 四〇、九三、一四四㌻等
(12)日亨上人『富士大石寺案内』 一三、三二㌻
また、総本山第五十八世日柱上人が当時の出版文書に色々と大聖人様の御法門を述べられたけれども、そのなかにも見当たらないのです。
これは、大正後期から昭和にかけて出てくるのです。このいきさつというのは、当時、田中智学が国柱会の前に標榜していた蓮華会というのがあって、それと宗門の御先師の方とが法論をしたのです。『富士宗学要集』(七ー 一五五~三〇五㌻)には、その横浜問答の顛末(てんまつ)が載っていますので、読んだ人もあるでしょう。ずいぶん往復の問答があるのです。私も若い頃に読んだけれども、その内容はほとんど本尊論で、戒壇論には全く触れていないのです。
けれども、それからあとに、また他門との問答があったのです。その問答のなかで「国立戒壇では何を御本尊にするのだ」
という内容になった時に、向こうは「その時になって決めればよいのだ」などと色々なことを言ったのですが、こちらはきちんと「国立戒壇というものはとにかく、正規の戒壇を国家において造るときには、本門戒壇の大御本尊を安置しなければならない」
ということを述べて、その論議の時に向こうが「国立戒壇」ということを言ったわけなのです。その論議においては「国立戒壇」という語に主眼があったのではなく、御本尊をどうするかということが、その内容だったのだけれども、向こうがその意味において使ったものを、こちらも使ってしまったわけです。そういうことから、宗門のなかでも「国立戒壇」という名称が出てきたわけであります。(9)
そこで、少なくとも昭和二十年の終戦以前は、要するに欽定憲法だったわけですから、あくまで天皇主権なのです。したがって「国立戒壇」ということを論ずるには、どうしても天皇の許可を得るということが一番の根本・中心になるということの考え方だったのです。
そのような状況のなかで、「国立戒壇」ということは、宗門では昭和二年に、総本山第六十五世日淳上人が二十八歳の時におっしゃっております。(10)
だから当然、御登座なさるずっと前の、まだ若い青年僧侶のころのことで、御登座されてからおっしゃっているということではないのです。ただ、そのような在り方のなかで、向こうがまず「国立戒壇」ということを御本尊に関してのなかで言ったから、こちらもそれに対応した形で「国立戒壇」という言葉を使ったというようなことだと思われます。
また、日亨上人は大正十一(一九二二)年に著された『日蓮正宗綱要(11)』と昭和四年の『富士大石寺案内(12)』において、国立戒壇ということをおっしゃっております。いずれも戦前ですから当然、欽定憲法における天皇の裁可による国立であるということをお考えになっていたと思うのです。
(9)『国立戒壇論の誤りについて』七~九㌻
大日蓮 昭和四十七年七月号 三三~三五㌻ 参照
(10)日淳上人「富士一跡存知事の文に就いて」 大日蓮 昭和二年七月号 三〇、三二㌻
日淳上人全集下 一二〇八、一二一一㌻
(11)日亨上人『日蓮正宗綱要』 四〇、九三、一四四㌻等
(12)日亨上人『富士大石寺案内』 一三、三二㌻