顕正会は当初「妙信講」と称し、昭和十六年に浅井甚兵衛(じんべえ)を講頭として結成され、同十七年に本宗の講中(こうちゅう)として認証されました。東京品川の妙光寺に所属していましたが、種々の問題があり、妙光寺を飛び出して法道会(法道院)に所属し、さらに同三十三年一月、妙縁寺所属の講中となったのです。
その後、昭和三十七年に法華講連合会が発足(ほっそく)した際、妙信講は連合会への加入を拒否したため、同三十九年から五年間、総本山大石寺に登山することができませんでした。
また、昭和四十五年頃、総本山において建設中であった正本堂(しょうほんどう)の意義について、妙信講は「大聖人の御遺命(ゆいめい)の戒壇は、天皇の勅宣(ちょくせん)と御教書(みぎょうしょ)(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇(こくりつかいだん)でなければならない。その戒壇は天母山(あんもやま)に建てるべきだ」などと、独自の主張に及びました。「天母山」とは、大石寺の東、約四キロの所にある小高い山のことです。
この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、「国立戒壇」があたかも本宗の伝統教義のように誤解されることを憂慮(ゆうりょ)された総本山第六十六世日達上人は「今後は国立戒壇の名称は使用しない」と言明されたのです。
これに対し、国柱会の田中智学(ちがく)が言い出した国立戒壇論を恃(たの)む浅井甚兵衛・昭衛父子は「宗門が国立戒壇を捨てたのは創価学会の圧力に屈したからだ」と難癖(なんくせ)をつけはじめ、昭和四十七年には宗門に対して「国立戒壇を宗内に宣言せよ、さもなくば実力行動に移る」と脅迫まがいの文書を突きつけてきました。
宗門は妙信講に反省を促し、弁疏(べんそ)の機会を与えましたが、妙信講から宗門には従わない旨(むね)の返答があったため、昭和四十九年八月十二日、妙信講を講中解散処分とし、十一月には浅井父子ら幹部三十三名を信徒除名処分としました。
しかし、その後も浅井らは妙信講を名乗り、昭和五十七年には「日蓮正宗顕正会」を自称して日蓮正宗の講中のごとく見せかけました。
さらに平成八年十一月には宗教法人格を所得して法人名を「顕正会」としながら、会館などには「冨士大石寺顕正会」との看板を掲(かか)げ、あたかも日蓮正宗総本山大石寺と関係する教団のように装(よそお)い、日蓮正宗に対する寄生的体質を顕(あら)わにしています。
現在、顕正会を率いる浅井昭衛は、我見(がけん)を混じえた「国立戒壇」に固執(こしつ)し、「広布以前に事の戒壇はない」とか、「顕正会の遥拝(ようはい)勤行は宗祖御在世の信心をよみがえらせるもの」などの珍妙な邪説を唱える一方、全く当たらないこけおどしの予言を繰り返し、さらに本宗と無関係の立場になったにもかかわらず、「大御本尊不敬(ふけい)の御開扉を中止せよ」などと的外れの言いがかりを喧伝(けんでん)して会員を誑(たぶら)かしています。
宗門七百数十年の歴史の中で、血脈(けつみゃく)相伝の正義に背反(はいはん)して破門された集団が、一時、宗門のバラサイト(寄生者)となり己義(こぎ)を吹聴(ふいちょう)した例はいくつかありますが、それらすべて時の流れとともに消え去っています。
顕正会もこの例に漏(も)れず、結局は謗法者浅井昭衛の名を残して、やがて歴史から消え去る運命にあることを知るべきです。
その後、昭和三十七年に法華講連合会が発足(ほっそく)した際、妙信講は連合会への加入を拒否したため、同三十九年から五年間、総本山大石寺に登山することができませんでした。
また、昭和四十五年頃、総本山において建設中であった正本堂(しょうほんどう)の意義について、妙信講は「大聖人の御遺命(ゆいめい)の戒壇は、天皇の勅宣(ちょくせん)と御教書(みぎょうしょ)(政府の令書)による日本一国総意の国立戒壇(こくりつかいだん)でなければならない。その戒壇は天母山(あんもやま)に建てるべきだ」などと、独自の主張に及びました。「天母山」とは、大石寺の東、約四キロの所にある小高い山のことです。
この頃、創価学会の言論出版問題が起こり、「国立戒壇」があたかも本宗の伝統教義のように誤解されることを憂慮(ゆうりょ)された総本山第六十六世日達上人は「今後は国立戒壇の名称は使用しない」と言明されたのです。
これに対し、国柱会の田中智学(ちがく)が言い出した国立戒壇論を恃(たの)む浅井甚兵衛・昭衛父子は「宗門が国立戒壇を捨てたのは創価学会の圧力に屈したからだ」と難癖(なんくせ)をつけはじめ、昭和四十七年には宗門に対して「国立戒壇を宗内に宣言せよ、さもなくば実力行動に移る」と脅迫まがいの文書を突きつけてきました。
宗門は妙信講に反省を促し、弁疏(べんそ)の機会を与えましたが、妙信講から宗門には従わない旨(むね)の返答があったため、昭和四十九年八月十二日、妙信講を講中解散処分とし、十一月には浅井父子ら幹部三十三名を信徒除名処分としました。
しかし、その後も浅井らは妙信講を名乗り、昭和五十七年には「日蓮正宗顕正会」を自称して日蓮正宗の講中のごとく見せかけました。
さらに平成八年十一月には宗教法人格を所得して法人名を「顕正会」としながら、会館などには「冨士大石寺顕正会」との看板を掲(かか)げ、あたかも日蓮正宗総本山大石寺と関係する教団のように装(よそお)い、日蓮正宗に対する寄生的体質を顕(あら)わにしています。
現在、顕正会を率いる浅井昭衛は、我見(がけん)を混じえた「国立戒壇」に固執(こしつ)し、「広布以前に事の戒壇はない」とか、「顕正会の遥拝(ようはい)勤行は宗祖御在世の信心をよみがえらせるもの」などの珍妙な邪説を唱える一方、全く当たらないこけおどしの予言を繰り返し、さらに本宗と無関係の立場になったにもかかわらず、「大御本尊不敬(ふけい)の御開扉を中止せよ」などと的外れの言いがかりを喧伝(けんでん)して会員を誑(たぶら)かしています。
宗門七百数十年の歴史の中で、血脈(けつみゃく)相伝の正義に背反(はいはん)して破門された集団が、一時、宗門のバラサイト(寄生者)となり己義(こぎ)を吹聴(ふいちょう)した例はいくつかありますが、それらすべて時の流れとともに消え去っています。
顕正会もこの例に漏(も)れず、結局は謗法者浅井昭衛の名を残して、やがて歴史から消え去る運命にあることを知るべきです。