顕正会で言う遥拝勤行では、御本尊へのお給仕(きゅうじ)も、仏壇の清掃も、香華灯明(こうげとうみょう)を捧(ささ)げることもありません。
日蓮正宗の信仰を持(たも)つ人は、御本尊を拝して勤行·唱題することを信心の基本としますが、なかには事情によって御本尊を御安置できないため、やむなく内得信仰をしている人もいます。
しかし、これは御本尊受持にいたるまでの一時的な姿であり、これをもって、良しとするものではありません。
これに対し、浅井が推奨する遥拝勤行は、御本尊受持までの過渡的なものではなく、お給仕等の修行もない、空虚で観念的な行為でしかありません。
このようなものを「大御本尊に繋がる秘術」とか「広宣流布最終段階の信行の姿」などとする浅井の言は、まさしく証惑そのものです。
日蓮正宗の信仰を持(たも)つ人は、御本尊を拝して勤行·唱題することを信心の基本としますが、なかには事情によって御本尊を御安置できないため、やむなく内得信仰をしている人もいます。
しかし、これは御本尊受持にいたるまでの一時的な姿であり、これをもって、良しとするものではありません。
これに対し、浅井が推奨する遥拝勤行は、御本尊受持までの過渡的なものではなく、お給仕等の修行もない、空虚で観念的な行為でしかありません。
このようなものを「大御本尊に繋がる秘術」とか「広宣流布最終段階の信行の姿」などとする浅井の言は、まさしく証惑そのものです。