34.阿部日顕(上人)の「言い過ぎやはみ出しがあった」との発言は、反省の弁であり、間違いを認めたということである。 「言い過ぎやはみ出し」で許されるならば、
法華経を誹誘した法然の「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」も、弘法の「第三の劣·戯論(けろん)」も、慈覚の「理同事勝(りどうじしょう)」も、みな許されることになるではないか。
(基礎教学書 四四六趣意、顕正新聞 平成三二年四月五日号三三面趣意)
日顕上人は正本堂建立当時を振り返 って率直(そっちょくに)に、
戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがある
(近現代における戒壇問題の経緯と真義 九七)
と仰せられています。
これは「今から見れば」とのお言葉に明らかなように、
池田大作·創価学会の大誘法(ほうぼう)が明確になった現在より当時を振り返れば、言い過ぎやはみ出しがあったという意味ですが、だからと言って日顕上人の当時の文言に教義的な間違いがあったということではありません。まして
誘法などという性質のものではありません。
それを浅井昭衛は、強引に邪教徒の悪義である捨閉閣抛・第三戯論・理同事勝などと並べて誹謗中傷(ちゅうしょう)をしていますが、このような解釈は大聖人の仏法を深く理解できない短絡的な考えと言わざるを得ません。
法華経を誹誘した法然の「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」も、弘法の「第三の劣·戯論(けろん)」も、慈覚の「理同事勝(りどうじしょう)」も、みな許されることになるではないか。
(基礎教学書 四四六趣意、顕正新聞 平成三二年四月五日号三三面趣意)
日顕上人は正本堂建立当時を振り返 って率直(そっちょくに)に、
戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがある
(近現代における戒壇問題の経緯と真義 九七)
と仰せられています。
これは「今から見れば」とのお言葉に明らかなように、
池田大作·創価学会の大誘法(ほうぼう)が明確になった現在より当時を振り返れば、言い過ぎやはみ出しがあったという意味ですが、だからと言って日顕上人の当時の文言に教義的な間違いがあったということではありません。まして
誘法などという性質のものではありません。
それを浅井昭衛は、強引に邪教徒の悪義である捨閉閣抛・第三戯論・理同事勝などと並べて誹謗中傷(ちゅうしょう)をしていますが、このような解釈は大聖人の仏法を深く理解できない短絡的な考えと言わざるを得ません。