顕正会は、宗門に対して口癖のように「御遺命違背」と言いますが、もっとも大事な御遺命とは、本書の冒頭(4頁)「日蓮大聖人の「御遺命」について」にも述べたとおり、宗門以来の血脈相伝に随順することです。その肝心要(かなめ)の御遺命に違背しているのは、浅井が率いる顕正会です。
日達上人は、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会において、
末法の今日、まだ誇法(ほうぼう)の人が多い
(達全一ー三一三九四、大日蓮 昭和四○年三月号 一一)
と仰せられ、また正本堂落慶(らっけい)の年、昭和四十七年四月二十八日の正本堂の意義についての「訓諭」でも、
正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但(ただ)し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故(中略)未来において更(さら)に広布への展開を促進し
(達全二ー一一三、大日蓮 昭和四七年六月号 二)
と、今はまだ広宣流布の暁ではない、その途上(とじょう)であるという趣旨を明確に述べられました。
宗門僧俗もその御指南に信伏随従し、当時、宗内にみなぎっていた広宣流布間近という雰囲気もあり、前代未聞の大伽藍(がらん)が建立されるという慶事(けいじ)につけ、さらに創価学会の精進·努力に対して最大限の賛辞(さんじ)をもって表現したということです
宗内僧俗は、正木本堂の発願(ほつがん)式が、真の広布を目指す新たな出発の時として、今後一層の折伏弘教に適進(まいしん)することを固く誓ったのです。
それはまた、日蓮大聖人の御遺命である「広布を目指して精進せよ」との御教示の実践でもあります。
したがって、宗門の僧侶が御遺命の違背を犯したなどということは、全く当たりません。
日達上人は、昭和四十年二月十六日の第一回正本堂建設委員会において、
末法の今日、まだ誇法(ほうぼう)の人が多い
(達全一ー三一三九四、大日蓮 昭和四○年三月号 一一)
と仰せられ、また正本堂落慶(らっけい)の年、昭和四十七年四月二十八日の正本堂の意義についての「訓諭」でも、
正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但(ただ)し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故(中略)未来において更(さら)に広布への展開を促進し
(達全二ー一一三、大日蓮 昭和四七年六月号 二)
と、今はまだ広宣流布の暁ではない、その途上(とじょう)であるという趣旨を明確に述べられました。
宗門僧俗もその御指南に信伏随従し、当時、宗内にみなぎっていた広宣流布間近という雰囲気もあり、前代未聞の大伽藍(がらん)が建立されるという慶事(けいじ)につけ、さらに創価学会の精進·努力に対して最大限の賛辞(さんじ)をもって表現したということです
宗内僧俗は、正木本堂の発願(ほつがん)式が、真の広布を目指す新たな出発の時として、今後一層の折伏弘教に適進(まいしん)することを固く誓ったのです。
それはまた、日蓮大聖人の御遺命である「広布を目指して精進せよ」との御教示の実践でもあります。
したがって、宗門の僧侶が御遺命の違背を犯したなどということは、全く当たりません。