国柱会の田中智学が言い出した「国立戒壇」を正当化するために、天台大師の「一念三千」を引き合いに出すのは、そもそも的外れです。
その理由として、第一にその言葉を言い出した人に天地の相違があります。一念三千は三国四師の一人に数えられ、像法(ぞうほう)時代における法華経の導師である天台大師が法華経の根本法義として説き出されたものです。
これに対して国立戒壇なる言葉は、身延日蓮宗から還俗(げんぞく)して新興宗教を開いた田中智学(ちがく)が言い出した言葉です。
したがって、国立戒壇を一念三千の法理に譬(たと)えるのは、田中智学を天台大師と同等に見なす盲見(もうけん)と言うべきです。
理由の第二は、一念三千が法華経の根本法理であるのに対し、広布の暁に建立されるべき戒壇は、古来宗門にあっては、
智臣(ちしん)・大徳宜(だいとくよろ)しく群議(ぐんぎ)を成すべし。兼日(げんじつ)の治定(ちじょう)は後難を招くに在(あ)り (富要 二 - 三四、六巻抄 八六参照)
とあるように、その時の到来を持って定められるものです。
したがって、不変の法理である一念三千と、群議によって決さられる戒壇建立とは、その意義内容において大きな違いがあります。このように、国立戒壇と一念三千を同格に見なすことは、人法両面において天地雲泥(うんでい)の差があるのです。
まさに浅井の言い分は浅識(せんしき)による暴論です。
その理由として、第一にその言葉を言い出した人に天地の相違があります。一念三千は三国四師の一人に数えられ、像法(ぞうほう)時代における法華経の導師である天台大師が法華経の根本法義として説き出されたものです。
これに対して国立戒壇なる言葉は、身延日蓮宗から還俗(げんぞく)して新興宗教を開いた田中智学(ちがく)が言い出した言葉です。
したがって、国立戒壇を一念三千の法理に譬(たと)えるのは、田中智学を天台大師と同等に見なす盲見(もうけん)と言うべきです。
理由の第二は、一念三千が法華経の根本法理であるのに対し、広布の暁に建立されるべき戒壇は、古来宗門にあっては、
智臣(ちしん)・大徳宜(だいとくよろ)しく群議(ぐんぎ)を成すべし。兼日(げんじつ)の治定(ちじょう)は後難を招くに在(あ)り (富要 二 - 三四、六巻抄 八六参照)
とあるように、その時の到来を持って定められるものです。
したがって、不変の法理である一念三千と、群議によって決さられる戒壇建立とは、その意義内容において大きな違いがあります。このように、国立戒壇と一念三千を同格に見なすことは、人法両面において天地雲泥(うんでい)の差があるのです。
まさに浅井の言い分は浅識(せんしき)による暴論です。