日達上人は、昭和四十五年五月三日に、
わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁(あかつき)に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
一閻浮提(いちえんぶだい)第一、ノ本尊ツ可シ立ツ此国ニ。(新定 二ー九七五)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう
名称を使用しないことにいたします(達全 二ー五ー四九九、大日蓮 昭和四五年六月号一七)と、日蓮大聖人の仏法の本義に照らして「国立戒壇」の語を使用しないと御指南されました。
わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁(あかつき)に完成する戒壇に対して、かつて「国立戒壇」という名称を使っていたこともありました。しかし、日蓮大聖人は世界の人々を救済するために
一閻浮提(いちえんぶだい)第一、ノ本尊ツ可シ立ツ此国ニ。(新定 二ー九七五)
と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に「国立戒壇」などということはありえないし、そういう名称も不適当であったのであります。明治時代には「国立戒壇」という名称が一般的には理解しやすかったので、そういう名称を使用したにすぎません。明治より前には、そういう名称はなかったのであります。今日では「国立戒壇」という名称は世間の疑惑を招くし、かえって、布教の邪魔にもなるため、今後、本宗ではそういう
名称を使用しないことにいたします(達全 二ー五ー四九九、大日蓮 昭和四五年六月号一七)と、日蓮大聖人の仏法の本義に照らして「国立戒壇」の語を使用しないと御指南されました。