「有羞の僧」とは、いまだ真実の悟りを得られないことを恥じて修行に適進(まいしん)する僧を言います。しかし浅井昭衛の言う「有羞の僧」とは、浅井の言い分に与同して「国立戒壇」を唱え、「天母山(あんもやま)」に執着(しゅちゃく)し、広宣流布最終段階の信行の姿である「遥拝勤行」で百遍(五分間)の唱題に励む僧侶を指しているようです。
しかし、そのような僧侶を本宗では「有羞の僧」とは言いませんし、
「正義にめざめた僧侶」とも言いません。
「二人·三人と出現する」という言葉も駄法螺(だばら)に過ぎません。
しかし、そのような僧侶を本宗では「有羞の僧」とは言いませんし、
「正義にめざめた僧侶」とも言いません。
「二人·三人と出現する」という言葉も駄法螺(だばら)に過ぎません。