日達上人の前述のお言葉(設問7参照)のとおり、大聖人の御書に「国立戒壇」という用語もなければ「国教にせよ」などの御教示もありません。
浅井昭衛は「国立戒壇」を主張するため、「国教化」に執着(しゅうちゃく)するのでしょう。しかし、伝教大師が述門(しゃくもん)の戒壇を建立した例を見ても、時の天皇の勅宣(ちょくせん)を得たことは事実ですが、だからと
言って戒壇堂を天皇の手で建てたとか、国家が建立したというのではありませんし、天台法華宗が国教となったわけでもありません。戒壇の建立主は、あくまで比叡山だったのです。したがって、比叡山の戒壇堂を「国立戒壇」とは言わないのです。
これに対して,日蓮大聖人の仰せられる本門寺の戒壇建立は、「万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉る」時、すなわち皆帰(かいき)妙法の広宣流布が成就した時に建立されるのであり、どのように建立するかは、『本門心底抄』に、
智臣(ちしん)·大徳宜(だいとくよろ)しく群議(ぐんぎ)を成すべし(富要 二ー 三四、六巻抄 八六参照)
とあるように、一切は時の御法主上人の御指南のもとに智臣と大徳が相談して決定すべきことです。広宣流布途上(とじょう)の現今において、国教化などを云々(うんぬん)することは時期尚早(そうそう)です。
浅井昭衛は「国立戒壇」を主張するため、「国教化」に執着(しゅうちゃく)するのでしょう。しかし、伝教大師が述門(しゃくもん)の戒壇を建立した例を見ても、時の天皇の勅宣(ちょくせん)を得たことは事実ですが、だからと
言って戒壇堂を天皇の手で建てたとか、国家が建立したというのではありませんし、天台法華宗が国教となったわけでもありません。戒壇の建立主は、あくまで比叡山だったのです。したがって、比叡山の戒壇堂を「国立戒壇」とは言わないのです。
これに対して,日蓮大聖人の仰せられる本門寺の戒壇建立は、「万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉る」時、すなわち皆帰(かいき)妙法の広宣流布が成就した時に建立されるのであり、どのように建立するかは、『本門心底抄』に、
智臣(ちしん)·大徳宜(だいとくよろ)しく群議(ぐんぎ)を成すべし(富要 二ー 三四、六巻抄 八六参照)
とあるように、一切は時の御法主上人の御指南のもとに智臣と大徳が相談して決定すべきことです。広宣流布途上(とじょう)の現今において、国教化などを云々(うんぬん)することは時期尚早(そうそう)です。