そのような話は、根も葉もない虚言(きょうげん)です。
日達上人は、第六十七世日顕上人に厳然と血脈相承され、安祥(あんじょう)として御遷化(せんげ)されました。顕正会は、Nなる会員が、大石寺の従業員であった母親から聞いた話として「N家は日達上人の縁戚で、母は日達上人の入院先に三度見舞いに行った。
臨終の時、日達上人は二時間に及ぶ心臓マッサージを受けても蘇生(そせい)せず、悪相で死んだ」などという話を吹聴(ふいちょう)しています。しかしN家は日達上人の縁戚ではないこと、Nの母は日達上人の見舞いに来ていないこと、二時間に及ぶ心臓マッサージなど行われていないこと、
日達上人の御遷化のお姿は成仏の相を示しておられたことが明らかとなっており、Nの話がすべてねつ造であることは明白です。
日達上人の御遷化のお姿が成仏の相であったことは、以下の宗門の公式記録や、御尊骸(そんがい)を判した人の言葉からも明らかであり、また当時を知る多くの僧俗がそのことを証言しています。
当時の記録には、
遺弟(ゆいてい)によって、最后(さいご)の御剃髪(ていはつ)、御剃顔(ていがん)が行なわれ、半眼半口(はんがんはんく)の御温顔(おんがん)に一同新たなる感慨(かんがい)を禁じ得なかった
(大日蓮 昭和五四年九月号八四)
とあり、当時の教学部長であった大村壽顕(日統〕師は、
病室へ駆け込んだ時、既(すで)に狼下(げいか)には御遷化の直後であり、いつもとかわらぬ静かな御尊容(そんよう)を拝して只々哀痛悲嘆(ただただあいつうひたん)にくれるのみでありました(同 三七)
と述懐(じゅっかい)されています。
虚偽(きょぎ)の話をでっち上げて、宗祖以来の血脈を相承あそばされた日達上人の臨終の相を詐誇中傷(ひぼうちゅうしょう)する浅井昭衛の振る舞いは、信仰者としても人間としても許されない悪行です。
最近また、顕正会員Tなる者が、伝聞(でんぶん)の伝聞として、本宗僧侶がかつて日達上人の臨終が悪相であったと語ったごとく『顕正新聞』(令和元年八月五日号七面)に掲載していますが全くの作り話に過ぎません。
日達上人は、第六十七世日顕上人に厳然と血脈相承され、安祥(あんじょう)として御遷化(せんげ)されました。顕正会は、Nなる会員が、大石寺の従業員であった母親から聞いた話として「N家は日達上人の縁戚で、母は日達上人の入院先に三度見舞いに行った。
臨終の時、日達上人は二時間に及ぶ心臓マッサージを受けても蘇生(そせい)せず、悪相で死んだ」などという話を吹聴(ふいちょう)しています。しかしN家は日達上人の縁戚ではないこと、Nの母は日達上人の見舞いに来ていないこと、二時間に及ぶ心臓マッサージなど行われていないこと、
日達上人の御遷化のお姿は成仏の相を示しておられたことが明らかとなっており、Nの話がすべてねつ造であることは明白です。
日達上人の御遷化のお姿が成仏の相であったことは、以下の宗門の公式記録や、御尊骸(そんがい)を判した人の言葉からも明らかであり、また当時を知る多くの僧俗がそのことを証言しています。
当時の記録には、
遺弟(ゆいてい)によって、最后(さいご)の御剃髪(ていはつ)、御剃顔(ていがん)が行なわれ、半眼半口(はんがんはんく)の御温顔(おんがん)に一同新たなる感慨(かんがい)を禁じ得なかった
(大日蓮 昭和五四年九月号八四)
とあり、当時の教学部長であった大村壽顕(日統〕師は、
病室へ駆け込んだ時、既(すで)に狼下(げいか)には御遷化の直後であり、いつもとかわらぬ静かな御尊容(そんよう)を拝して只々哀痛悲嘆(ただただあいつうひたん)にくれるのみでありました(同 三七)
と述懐(じゅっかい)されています。
虚偽(きょぎ)の話をでっち上げて、宗祖以来の血脈を相承あそばされた日達上人の臨終の相を詐誇中傷(ひぼうちゅうしょう)する浅井昭衛の振る舞いは、信仰者としても人間としても許されない悪行です。
最近また、顕正会員Tなる者が、伝聞(でんぶん)の伝聞として、本宗僧侶がかつて日達上人の臨終が悪相であったと語ったごとく『顕正新聞』(令和元年八月五日号七面)に掲載していますが全くの作り話に過ぎません。