浅井昭衛は、
熱原の方々は、未(いま)だ御本尊を一人も頂いていなかった。リーダーの神四郎(じんしろう)·弥五郎(やごろう)·弥六郎の三人にしても、御本尊を頂戴(ちょうだい)できたのは首を刎(は)ねられたのちですよ。当然、日頃の勤行は逢拝勤行であったということです。(顕正新聞平成一〇年六月一五日号二面)
と言っていますが、これは浅井の思い込みによる誤解です。
なぜなら、第二祖日興上人の『弟子分(ぶん)本尊目録』には、大聖人から御本尊を授与(じゅよ)された信徒として熱原三烈士(れっし)の名が挙げられており、三人が生前に御本尊を授与されていたことは明らかです。その目録のどこにも、三人が死後に授与されたなどとは書かれていません。また熱原の法華講衆は、大聖人、日興上人の御教導のもと、日秀師·日弁師等と異体同心して信行に励んでいたのであり、熱原法華講衆が遥拝勤行をしていたなどというのは、浅井の自分勝手な妄想に過ぎません。特に三烈士は、本門戒壇の大御本尊が御図顕される以前に捕られて殉死(じゅんし)されているのですから、大御本尊への遥拝勤行などできるはずがありません。
ここにも浅井の悪質なたばかりが明らかです。
熱原の方々は、未(いま)だ御本尊を一人も頂いていなかった。リーダーの神四郎(じんしろう)·弥五郎(やごろう)·弥六郎の三人にしても、御本尊を頂戴(ちょうだい)できたのは首を刎(は)ねられたのちですよ。当然、日頃の勤行は逢拝勤行であったということです。(顕正新聞平成一〇年六月一五日号二面)
と言っていますが、これは浅井の思い込みによる誤解です。
なぜなら、第二祖日興上人の『弟子分(ぶん)本尊目録』には、大聖人から御本尊を授与(じゅよ)された信徒として熱原三烈士(れっし)の名が挙げられており、三人が生前に御本尊を授与されていたことは明らかです。その目録のどこにも、三人が死後に授与されたなどとは書かれていません。また熱原の法華講衆は、大聖人、日興上人の御教導のもと、日秀師·日弁師等と異体同心して信行に励んでいたのであり、熱原法華講衆が遥拝勤行をしていたなどというのは、浅井の自分勝手な妄想に過ぎません。特に三烈士は、本門戒壇の大御本尊が御図顕される以前に捕られて殉死(じゅんし)されているのですから、大御本尊への遥拝勤行などできるはずがありません。
ここにも浅井の悪質なたばかりが明らかです。