昭和四十年三月二十六日付の「正本堂建立御供養趣意書」に、正本堂建立の位置について、大御本尊は客殿の奥深く安置する(大日蓮 昭和四○年五月号一五)
とありますが、浅井昭衛は昭和四十年五月二十五日の総幹部会の席上、
貌下の深い御思召(おぼしめし)により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります
(冨士昭和四○年七月号九)
と言っています。この「客殿の奥深く」という言葉は、宗門においても特殊な表現であり、「趣意書」を読まなければ出てこないものです。
さらに浅井は、
全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか(同)
と、御供養に参加するよう強力に指導しており、この発言は「正本堂建立御供養趣意書」を知っていたからこそ、なされたものと言うべきです。
これらのことから、浅井が昭和四十年五月ごろには「正本堂建立御供養趣意書」の存在も、内容も熟知していたことは明らかです。
とありますが、浅井昭衛は昭和四十年五月二十五日の総幹部会の席上、
貌下の深い御思召(おぼしめし)により大客殿の奥深き正本堂へとお出ましになるのであります
(冨士昭和四○年七月号九)
と言っています。この「客殿の奥深く」という言葉は、宗門においても特殊な表現であり、「趣意書」を読まなければ出てこないものです。
さらに浅井は、
全講を挙げて歓喜の御供養をさせて頂こうではありませんか(同)
と、御供養に参加するよう強力に指導しており、この発言は「正本堂建立御供養趣意書」を知っていたからこそ、なされたものと言うべきです。
これらのことから、浅井が昭和四十年五月ごろには「正本堂建立御供養趣意書」の存在も、内容も熟知していたことは明らかです。